まつりの変化
- 2024年8月21日
商業や観光に関わる分野を取材することが多い。ここ何年か、新型コロナ感染症の流行などもあって週末のイベントから足が遠のいていた。今年は仕事もあり、さまざまな催しやまつり会場を訪れている。 飲食物や子どもが喜びそうなくじ、お面などのおもちゃを販売する露店やキッチンカーの価格が総じて以前より高い
商業や観光に関わる分野を取材することが多い。ここ何年か、新型コロナ感染症の流行などもあって週末のイベントから足が遠のいていた。今年は仕事もあり、さまざまな催しやまつり会場を訪れている。 飲食物や子どもが喜びそうなくじ、お面などのおもちゃを販売する露店やキッチンカーの価格が総じて以前より高い
今回は採血についてお話しします。通常の定期健康診断では、採血管3本分の採血をします。たくさん採っているように見えますが、全量10~15ミリリットル程度で大さじ1杯くらいの量ですので、それほど多くの血液を必要としないことが分かっていただけると思います。 採血そのものはすぐに終わりますが、採血
前回に引き続き、コミュニティースペース「ENTRANCE(エントランス)」の役割の一つ「まちとつながる場」について、具体的なイベントを取り上げながらフォーカスして紹介します。 母親にリフレッシュしてもらう「ママNight」と同様、定期的なイベントに、「TJNight」があり、これまでに5回
「九谷焼」とは、江戸時代の初め、現在の石川県加賀市山中温泉九谷町において初めて焼成され、時代と窯の移り変わりで作風を変えながら、今日まで続いてきました。その特色は何よりも独特な色絵装飾にあり、九谷焼に用いられる緑・黄・紫・紺青・赤の色彩は、「九谷五彩」と呼ばれています。 宮本屋窯は、183
苫小牧工業高等専門学校で知り合った5人が昨年10月に結成したバンド「Shiroi」のメンバーで、31日から9月1日まで苫小牧市の中心部で開かれる野外音楽フェス「活性の火」に初めて出演します。 「Kroi」のコピーバンドで、キーボードを担当しています。7月に活性の火のオーディションに挑戦し、
今年のお盆休みは8年ぶりに江差(桧山管内)を訪れた。380年に迫る歴史を持ち、道内最古にして随一の絢爛(けんらん)豪華な夏祭り「姥神大神宮渡御祭」をもう一度この目で見たくなったからだ。毎年8月9日からの3日間、全国に散っている江差っ子たちがニシンの群れのように故郷に舞い戻り、まちは祭り一色となる。
「九谷赤絵」とは、九谷焼の様式の中で、赤と金の細密描写を特徴とします。その技法は、中国の宋赤絵を起源に江戸時代に日本に伝わったものです。江戸時代後期に現在の石川県加賀市に開窯した宮本屋窯(1832〈天保3〉~59〈安政6〉年)は、赤絵を大成したとされており、類まれな緻密な文様で埋め尽くされた器面は
苫小牧で生花店の4兄弟長男として生まれた。子どもの頃から帰宅後は家業を手伝い、「将来は花屋になるのかな」と意識していた。高校卒業後は札幌市の北海道綜合美術専門学校(現北海道芸術デザイン専門学校)に進学し、建築を学んだ。ここを選んだ理由も「建物から花を見ることができるようになれば」という思いからだ。
今回も苫小牧商工会議所の職員を紹介したいと思います。39歳の男性係長です。 かつてテレビアニメにあった「おぼっちゃまくん」の主人公をほうふつさせる子どもっぽい風貌ですが、周りに気を使い、面倒見がよく、コミュニケーション能力が高い。そして、「おぼっちゃまくん」のように、プライドを人一倍高く持
本道の産業拠点として成長する苫小牧東部地域。国際港湾として発展する苫小牧港の東西両港や日高自動車道、新千歳空港に近い交通の要衝とともに、GX(グリーントランスフォーメーション)の動きも、大きな優位性の一つだ。化石燃料から太陽光発電などクリーンなエネルギーへと転換し、社会を変革しようという取り組み。
2020年夏、突如として始まった、わが家の小さな環境グループ「地球お守りチーム」の活動も、早いもので5年目を迎えました。この活動は、毎月、海辺や川辺などでごみ拾いをするもので、当初はわが家だけで行っていましたが、ありがたいことに一緒に活動をしてくださる方々も増え、これまで延べ52回の活動を行い、累
―競技を始めたきっかけと入団を決意した理由は。 3人兄弟の末っ子で、2人の兄の影響から2歳の時にはスケートを滑っていた。REHは幼い頃から憧れていたチームだったので、オファーをもらって即決した。 ―競技人生の中でのターニングポイントは。 たくさんあるが、一つあげると高校2年の
お盆のたびに思い出すことがあります。母が最後に作った「精霊馬」のことです。精霊馬を飾るかどうかは宗派によりますが、ご先祖さまが浄土と現世を行き来するために乗る馬と牛に見立てて用意するものです。 母が2011年に若年性認知症と診断されてから、13年たちます。最後に精霊馬を作ったのは14年。こ
10歳の時、苫小牧空襲を経験しました。サイレンが鳴り響き、母と妹、弟を連れて防空壕(ごう)に避難した記憶があります。その中で、米軍の爆撃機が攻撃してくるのを見上げていました。 海上からの艦船による艦砲射撃の際は家族と家にいましたが、突然「ドーン」という大きな音が聞こえた後、ビリビリと窓ガラ
7月3日から新紙幣が発行され、苫小牧市内のATMでも見られるようになった。 これまでお札には愛称があった。旧1万円札なら「諭吉」、旧1000円札は「英世」。ネット上では新紙幣発行時に「これから何と呼ぼうかな」というコメントが相次いで投稿され、世間をにぎわせていた。 調べていくと、1
私が4歳の頃、父は陸軍で支那事変(日中戦争)を経験しました。復員した時、家族で喜び合った日のことを時々思い出します。叔父2人も出征し1人はフィリピン・ルソン島で戦死、もう1人はインドから無事に帰りました。 1943(昭和18)年のアリューシャン列島アッツ島の戦いで、日本陸軍が玉砕した時のこ
山々に抱かれた四国の奥深く、水面すれすれに横たわる不思議な橋があります。欄干がなく、増水すれば水没する運命を持つ橋、それが沈下橋です。高知県を中心として西日本に点在する独特の構造物は通路以上の存在で、ある意味、四国の魂を映す鏡であり、この地に生きる人々のたくましさと知恵の結晶なのかもしれません。
札幌市で終戦を迎えました。明治生まれの頑固で厳格な父は、逓信病院(現・NTT病院)の勤務医。両親と次女の私を含むきょうだい5人、祖母、曽祖母の9人家族でした。 終戦の年は13歳で旧制女学校の2年生。授業はほとんどなく援農(畑仕事)や工場での包装作業に明け暮れ、毎日くたくたでした。
夏にちなんで、苫小牧のプールの風景の変遷を見る。苫小牧に最初にプールができたのは昭和初期のこと。夏でも気温が上がらず、水泳には縁遠いと思われる苫小牧だが、どっこいこれが大外れで、50メートルプール(長水路)の北海道でのさきがけであり、道内各地から選手が集まる多くの競技会が開催され、また、昭和30年
7月14日日曜日、晴天。待ちに待った旭川でのライブ「大泉洋with青木さやかザ・トークショー」。 今年から「with青木さやか」というライブを立ち上げた。全国さまざまな土地で、ゆかりのあるゲストさんとエンターテインメントをお届けするここだけの話、エンタメの楽しさを知っていただこう、売り上げ
前回はおいしいものについてお話しました。現在北海道ではこれがたくさんある季節なので、今回もおいしいものについてお話していきます。 皆さんはクリームスイカの「金色羅皇(こんじきらおう)」という品種をご存じでしょうか。このスイカは常時糖度が15度以上あります。2021年に奈良県の種苗メーカーで
樺太(現サハリン)の恵須取町で生まれました。終戦の1年前、父はニューギニア(現パプアニューギニア)のビアクという小さな島で戦死しました。当時私は4歳と幼く、父の事は覚えていません。 玉音放送は、広場のような所で近所の人と一緒に聴きました。終戦前かその後かははっきり覚えていませんが、ソ連軍が
夏休みに入り、支笏湖ビジターセンターを訪れる方は、親子連れが多くなりました。とてもにぎやかな雰囲気になっています。 この時期、毎年ビジターセンターが行っているのはお子さまでも楽しめる「真っ暗支笏湖!夜の園地で生き物さがし」の開催です。今年は3日午後6時半~同8時に催しました。 まず
5歳の時に本別町で、本別空襲を経験しました。私の家から10キロほど先に仙美里という町があり、そこに日本軍の養成所がありました。米軍は養成所に向かう途中の橋を目掛けて空爆を続けており、いつも大きな爆発や戦闘機の姿におびえていました。 1945年7月15日の午前8時ごろ、住んでいた集落が攻撃さ
ばんえい競馬を見たことがありますか? 帯広市で開催されているばんえい競馬は、中央競馬や地方競馬のサラブレッドによる平地競走と異なり、数百キロのソリを引いてスピードとパワーを競う、世界唯一の競馬として開催されている。競走馬はサラブレッドの軽種に対して重種と呼ばれ体重は1トンを超える。馬の大半は北海道
終戦を迎えた場所は旧椴法華村(函館市椴法華地区)で、5歳の頃。その年は函館空襲があり、恵山灯台が破壊焼失しました。父は国民学校の校長で夏休み、(オホーツク管内)美幌町の農家まで食糧を得るため、母と農作業の手伝いに出ていて不在でした。 椴法華村は米軍艦載機の爆撃に遭い、焼夷弾で学校が焼けまし
いよいよパリ五輪が開幕しました。日本で期待の選手は多いですが、中でも女子やり投げの北口榛花選手に注目しています。というのも私は高校生の時、陸上部でやり投げをやっていたからです。経験者が少ない競技かと思いますので、少しだけやり投げのことを書かせていただきます。 やりの重さは男子が800グラム
利尻島鬼脇(現・利尻富士町鬼脇)で生まれ育ちました。5人きょうだいの2女。隣町の清川地区に兵舎があり、わたしたち子どもは慰問でダンスなどを披露していました。銀行員だった父は出征しませんでした。 終戦の日は9歳でした。島には無かった雑穀やでんぷんを求めて母と姉、妹、当時1歳の弟と一緒に、食糧
苫小牧市内で2~4日に開かれた一大イベント「とまこまい港まつり」を取材した。市民おどりパレードや花火大会、5年ぶりに復活したマーチングフェスティバル、ポートカーニバルの撮影などに多くの時間を割いた。 それぞれで地元企業をはじめ、多くの市民が関わり、汗を流していた。過程を取材したわけではない
5歳の時に太平洋戦争が開戦し、幼い頃の記憶は戦争一色です。7人姉妹の6女だったので、きょうだいを戦地に送った経験はなく、日の丸に囲まれて出征する兵隊を見送るたびに「格好良いな、うらやましいな」と思っていました。 通っていた増毛国民学校では、校門前に立つ高等科の先輩や教育勅語の謄本が収められ