錦岡保育園園長 山口 康男さん(68) 園児の成長日々見守る 市職員を経て現職に責務重大も「毎日が楽しい」
- 2023年7月15日
苫小牧市役所に36年間勤務し、退職後は5年間の苫小牧地域職業訓練センターを経て、現在は錦岡保育園(市宮前町)の園長を務めている。「子どもたちはみんな孫みたいにかわいい。園児の成長を日々見られるのがやりがい」と話す。 高度経済成長期に突入する1954年に函館市で生まれた。道職員だった父親の転
苫小牧市役所に36年間勤務し、退職後は5年間の苫小牧地域職業訓練センターを経て、現在は錦岡保育園(市宮前町)の園長を務めている。「子どもたちはみんな孫みたいにかわいい。園児の成長を日々見られるのがやりがい」と話す。 高度経済成長期に突入する1954年に函館市で生まれた。道職員だった父親の転
2019年3月、ゴルフスクール開業に向けて道内屈指の「ゴルフ銀座」苫小牧市を初めて訪ねた。年中ラウンドができる生まれ故郷の関東地方とは違い、まだ雪がちらつき、融雪などシーズンの営業準備を進めるコースが大半。縁もゆかりもない地で不安がなかったわけではない。それでも「腹は決まっていた」。 苫小
苫小枚市内に9店舗を構え、創業49年を迎える弁当製造・販売の「甚べい」を率いる。1978年に入社して以降、懸命に働き、会社を成長させた。「世の変化に追い付くだけでも大変だったけれど、仕事に人生を豊かにしてもらった」と、これまでを振り返る。 戦後復興期の51年、山形県河北町で桃の果樹園や畜産
外を歩くのが怖くなった。人と擦れ違うだけでも体が硬直し、汗が噴き出た―。華やかな大都会で念願のアニメーターになって数カ月がたった頃、自身の異変に気付いた。落ち着かない気分を紛らわすため、酒が手放せなくなった。 日本が円高不況に陥った1985年、22歳で北海道から上京し、憧れの職を得たものの
21歳で看護の道に入り、介護や女性支援とさまざまな活動に携わりながら人の健康、生活を支え続けてきた。80歳を過ぎた今は、平等社会を目指す市民運動に関わっている。その原動力は「どの世代も安心して暮らせる社会を実現させたい」との強い思いだ。 第2次世界大戦が始まり、日本の戦時体制も色濃くなった
「やると決めたら、とことん突き進む」。それをモットーに美術の道を歩んできた。学校の教壇に立つ傍ら、新道展会員の画家として活動。81歳の半寿を迎えた今も創作意欲は衰えず、新たな美の世界に挑戦し続けている。 1941年の日米開戦の1カ月前、虻田町(現洞爺湖町)で生まれた。子どもの頃から絵を描く
「世界の人たちと良い関係を築いてほしい」 そうした思いで長年、苫小牧市内の中学や高校で英語を教え、海外の人々と文通するペンフレンド活動もけん引。苫小牧の国際交流の発展に貢献してきた。 ドイツでヒトラーが首相となり、世界がファシズムに傾斜していった1933年、山形県上山市で4人きょう
白老町大町の商店街にある古い喫茶店。夫と二人三脚で営んで40年以上になる。丸太を削って手作りした椅子や一枚板のテーブルが並び、昭和の雰囲気を漂わせる店は文化芸術を愛する人たちの集いの場。長年にわたり文学サロンや歌声喫茶を定期的に催してきた。「この店に集まる人たちに支えられ、生かされてきた」。そう振
「人の役に立ちたい」。それを胸に人生を歩んできた。苫小牧市職員時代は公務と町内会活動にいそしみ、公務員を退いた後は障害者福祉にも力を尽くしてきた。来年、卒寿(90歳)を迎える身ながらも地域のために―と活動を続け、郷土に寄せる思いは今も熱い。 日本の軍国主義が色濃くなった昭和初頭の1933年
むかわ町穂別和泉で30年以上にわたり、農業を営みながら森林組合役員として林業振興に携わった。持ち前のリーダーシップで現在、町内の老人クラブのみならず、胆振管内全体の連合会長として手腕を振るう。来年は80歳。「会員の平均年齢は80代。自分はまだ若手ですよ」。冗談交じりに語る表情はバイタリティーにあふ
12種類のポスターカラーから無数の色を生み出す。色彩あふれる絵が持ち味だ。約45年間、グラフィックデザイナーとして活動。「素朴さを大事にしたい」との思いから、いつの時代も手描きを信条とした。 戦時下の東京都台東区で生まれた。4人兄弟の一番上。幼い頃から絵を描くのが好きで、「物心が付いた時か
「多才」の言葉がぴったりな人がいる。着付けの山野流で専門的知識や技術が認められた者だけに与えられる、奥伝師範講師の資格を持つ。老後の楽しみをつくるために習い始め、日本伝統文化の継承を担う存在にまでなった。 それだけではない。准看護師、美容師、エステティシャン、花嫁着付師、茶道の表千家講師、
自動車整備士の国家資格を持ち、長年にわたり道内4カ所の道立高等技術専門学院(技専)で自動車業界の将来を担う若者の育成に尽くした。今は苫小牧市内の幼稚園で活躍している。2輪の乗り物をこよなく愛し、「自転車やバイクと共に過ごしてきた人生。楽しみながら前に進むという精神は、あらゆることに通じると思う」と
「木の命を守りたい」との思いを胸に2001年12月、樹木医の資格を取得し、傷んだり病気になったりした木の治療に当たっている。各地のサクラ名所の再生にも地元住民と取り組み、手当てのノウハウも惜しまずに伝える。苫小牧初の”木のお医者さん”として歩んだこれまでを振り返ると、父の一
「100歳まで彫り続けたい」―。観音菩薩など木彫りの仏像がずらりと並ぶ苫小牧市青雲町の自宅兼工房で、約60年のキャリアを持つ仏師はそう話した。 太平洋戦争が始まった年の1941年、後に日本軍とソ連軍の戦場となった樺太・真岡(現サハリン・ホルムスク)で生まれた。実家は仏壇店だった。終戦を機に
会社を定年退職後、学生時代に打ち込んでいた美術を再開させた。毎年、絵のテーマを決めて制作活動に挑む。「人とは違ったことをやりたいという思いがある。これからもいろんなことに挑戦したい」と第二の人生を謳歌(おうか)している。 小樽市の出身。絵が好きだった両親の影響を受け、小学生の頃から水彩画に
エステサロンのオーナー、イベントプロデューサー、マーケティングディレクター、飲食や美容を手掛ける企業の外部役員―。さまざまな肩書を持つが、「自分自身を一言で表すと、”つなぎ人(びと)”という言葉が一番合っているかな」とほほ笑む。 48歳で心機一転、苫小牧市内で美容サ
「お客さんから感謝されるというのは、とてもうれしいことですよ」 長年にわたり苫小牧市柏木町で生花店を営み、地域に親しまれてきたこれまでを振り返り、愛される店づくりへの決意を新たにした。 1944年2月、5人きょうだいの長男として、幌泉村(現えりも町)の漁師の家に生まれた。夏になると
学校教員として34年にわたり子どもたちに情熱を注いできた。校長も務め、教育に全力で当たった人生を振り返り、「生徒たちとの思い出を今でも大切にしている」と語る。 1947年10月、様似村(現様似町)で生まれ、両親が営む旅館を生活の場に少年時代を過ごした。「とにかく遊ぶことが好きで、勉強はほと
日中戦争が始まった1937(昭和12)年、岩手県花泉町(現一関市)で7人きょうだいの末っ子として生まれた。8歳になったばかりの夏に終戦を迎えるが、戦時下の記憶はあまりない。ただ、10歳離れた兄の趣味の一眼レフカメラにいつも憧れのまなざしを送っていたことは、今も忘れない。 中学卒業後、手に職
長年にわたり建設やビル管理の業界に携わってきた。常に向学心、向上心に燃え、仕事関係の資格を次々に取得し、ビルメンテナンスの会社も営んだ。80代後半になった今も、建設関連のコンサルタントを務める。何事にも全力―。それを胸に人生を力強く歩んできた。 1934年11月、小樽市で生まれた。少年時代
色とりどりの花が庭を彩る自宅のキッチンに、すべて手作りの食器が並ぶ。家の隣に陶芸アトリエ「夢草工房」を構え、愛犬の春ちゃんに見守られながら創作を続けている。夫の死で悲嘆に暮れた日々を救ってくれたのは、陶芸と仲間の励ましだった。 1941年、虻田町(現洞爺湖町)で6人きょうだいの長女として生
厚真町で2008年にスタートして以降、地域を代表する冬の一大スポーツイベントに成長し、町内外から多くの人を呼び込むまでになった「あつま国際雪上3本引き大会」。実行委員長としてけん引し、郷土の活性化に挑んできた。 とにかくイベントが好きだった。「厚真って、やるってなったものを見守ってくれる先
「道徳は、自分自身の品性や品格といった人格を高める。人間の基盤をつくる上で大切なものだ」と力説する。約40年にわたり小中学校や行政で教育に携わりながら、モラロジー道徳教育財団(本部・千葉県柏市)の講師を務め、教師や保護者を対象に道徳教育の必要性を訴え続けた。 小学校教員だった叔父と叔母の影
古き良き二刀流で氷都再建へ―。苫小牧市の小学年代以下のアイスホッケークラブ、レッドモンスターズJrは今年度から夏季は野球にも取り組む「二刀流クラブ」として活動をスタートさせている。複数の競技に取り組むことで運動機能の向上を目指すほか、減少傾向にある競技人口の底辺拡大も視野に入れる。 同クラ
苫小牧工業高校野球部を夏1回、春3回甲子園に導いた名将。同校の卒業生として教壇に立ちながら33季にわたって野球指導に情熱を注いだ。 初任地の虻田商業高(現虻田高)を経て1965年に苫工高の教員となった。生徒時代の恩師から野球部監督のバトンを託され、「きれい事は言わない。とにかく勝ちたい一心
小学生の頃、内向的な性格だと、担任教師から言われたことがある。しかし、次第に変わっていった。「アイスホッケーのおかげかもしれないね」と笑う。 苫小牧市で生まれ、父が勤めていた王子製紙苫小牧工場の社宅で育った。毎年冬、住民らが社宅の敷地に造るスケートリンクで遊んだのが、子どもの頃の思い出。防
苫小牧市植苗のウトナイ湖野生鳥獣保護センター。2階のギャラリースペースに、勇払原野の動植物を丁寧に描いた点描画がずらりと並ぶ。29日までを期間とした新作展。木の板に描いた下書きにはんだごてで焦げ目を付け、輪郭や陰影を表現する。「勇払原野にたくさんいる動植物に興味を持つきっかけになれば」。そんな思い
1998(平成10)年、平取町から苫小牧市桜木町へ移住して24年たつ。海や森など自然に恵まれ、人口も多い街だけど、観光の目玉になるような場所が少ないと感じる。スポーツの関連施設は充実しているものの、子どもたちが楽しめる遊園地のような施設があれば、「もっと人が集まる街になるのではないか」と苫小牧への
80歳まで野球のノック用バットを握った。少年野球チームで監督を務め、子どもたちの成長を感じることは、生きがいでもあった。卒団生として送り出した教え子は200人以上。子どもと練習に汗を流した日々は掛け替えのない思い出だ。 札幌市で生まれ育ち、小学1年時に苫小牧市に移り住んだ。苫小牧東高校を卒