錦西ふる里の家教会 司式牧師 桐生信さん(74) 苦しみ抱える心に寄り添う 人とのつながり希薄な 世の中で「できることを」 「聖書の教え」道しるべに奉仕活動励む
- 2022年4月9日
人が生きる意味とは―。10代にして人生の大きなテーマと向き合ったことをきっかけに、キリスト者(クリスチャン)となった。仕事が続かず、挫折を味わったことも。それでも信仰を支えに、多くの人と心を通わせてきた。病気や貧困、戦争などで混迷を極める今、生きる気力を失った人の声に耳を傾け、傷ついた心に寄り添う
人が生きる意味とは―。10代にして人生の大きなテーマと向き合ったことをきっかけに、キリスト者(クリスチャン)となった。仕事が続かず、挫折を味わったことも。それでも信仰を支えに、多くの人と心を通わせてきた。病気や貧困、戦争などで混迷を極める今、生きる気力を失った人の声に耳を傾け、傷ついた心に寄り添う
長年、小売酒販業界に携わってきた。大手小売店の進出により、地元業者が売り上げ減少に苦しむ中、地域の業界団体代表として、たばこや酒類業界の支援に努める。苫小牧地区保護司会の副会長など各種団体でも役員を歴任し、札幌家庭裁判所苫小牧支部の調停委員も務める。 1949年8月、白老町で生まれた。2歳
「努力に勝る天才無し」―。中学時代の恩師がくれた言葉を胸に、苫小牧市日吉町の板野勝さん(79)は激動の時代を駆け抜けてきた。よく遊び、よく学んだ半生を「出会った人への感謝でいっぱい」と振り返る。 戦時中の1942年、穂別町(現むかわ町)で4男3女の3男として産声を上げた。実家は農家だったこ
小説家としての輝かしい実績を持ちながら、「もの書き屋」としてむかわ町に根付いて取材活動を展開する。鵡川農業協同組合(JAむかわ)の広報誌を担当する傍ら、日本農業新聞の通信員として鵡川地区の農業分野で活躍する地域住民の姿を追い掛けてきた。「ペンは剣より強し」の精神で読者に心温まる情報を届ける。「書く
1947年2月、後志管内留寿都村で大工の棟梁だった父の4人きょうだいの次男として誕生。2歳で虻田町(現洞爺湖町)に移り、18歳まで過ごした。 子どもの頃は、遊ぶとなれば大人数が基本。砂浜で野球をしたのを懐かしく思い出すという。中学時代は父の仕事を手伝い、洞爺地区の旅館やホテルの建築を手伝っ
苫小牧市の高砂町町内会の会長を務めて4月で8年目を迎える。同町(旧浜町)で生まれ育ち、実家の土地を引き継いで家を建て、今も同じ場所で暮らす。海に面した町の移り変わりを自らの目で見てきた。 1949年、雑貨店を営む両親の元に長男として生まれた。周囲は住宅が数軒立っていたが「現在の高砂処理場が
「18歳で生花店に嫁に来て、現在も現役。気付いたら60年以上花の世界にいる」としみじみ語るのは青木節子さん(79)。国道235号沿いに立地する青木造園土木青木生花店(苫小牧市寿町)の専務取締役として経理を担当するほか、国際ソロプチミスト苫小牧副会長、苫小牧商工会議所女性会副会長、花菖蒲(しょうぶ)
低出生体重児で生まれた。「この子は長く生きない」―。助産師から告げられた両親は、出生届をしばらく出さなかったと聞いた。あれから90年もの歳月がたとうとしている。「あっという間な人生だった」と北畠瞳さん(89)はほほ笑んだ。 7人きょうだいの3番目で長女。太平洋戦争は室蘭市在住中に経験した。
苫小牧市日吉町に本社を置く住宅建設会社、大鎮(だいしん)キムラ建設の創業者。中学生で大工の道を志したが、現役を退いた後に、父の母方の家系が、建築業に携わっていることを知り「因果を感じる。面白いものだ」と感慨深げに語る。 新潟県佐渡市(佐渡島)で生まれ、父の都合で6歳の時に苫小牧市に引っ越し
とまこまい港まつり、とまこまいスケートまつりなど苫小牧の一大行事から地域の夏まつりまで大小のイベントの企画提案や用品の調達、設営などを手掛ける有限会社アーバン・ワークを立ち上げ、今年で18年目を迎える。「お祭りが好きで、前に出たいタイプの人間。仕事やスポーツを通じた人脈を生かし、なんとかやってきた
苫小牧市の桜木町町内会会長を務める三澤伸吉さん(69)は「多くの人に生かされていることを忘れず、チャレンジ精神を持ち、町内会のために尽力する」と笑顔で語る。 1952(昭和27)年に名寄市麻生町で生まれ、父が働く帝国繊維名寄工場の社宅で育った。保育所の窓ガラスを割って逃げ出すほど元気いっぱ
今年10月、白老町の子育て支援団体に依頼されてスケッチ教室の講師を初めて務めた。受講者は地元の児童ら。自由な発想と感性で画用紙に色鉛筆を走らせる子どもたちを優しく見守った。小学校で美術を教えたい―。80歳になって昔の夢がかなった気持ちになり、うれしさが胸にこみ上げた。 白老で明治から続いた
監督を務めてきた勤務先の軟式野球チーム「日本通運苫小牧」が今年限りで休部する。約70年の歴史が途絶え、今後は審判員として野球に携わるつもりだ。 1964(昭和39)年に日高町で生まれた。71年に苫小牧市に移住し、若草小に入学。高学年になると少年野球の船見バッファローズとアイスホッケーの若草
10年ほど前、苫小牧市日新町に水産物の卸会社「ノースオールコーポレーション」を立ち上げた髙橋克典さん(52)。新型コロナウイルス下で飲食業界が大打撃を受け、取引が激減した。それでも落ち込むことなく、安心して外食を楽しめる環境を自らつくろうと、光触媒コーティングの施工事業に乗り出した。「今が頑張り時
中学校卒業後、はんこ店で修業を積み、親方に「一生食いっぱぐれないぞ」と言われた。父親が経営する店で勤務後、苫小牧市内で独立。高度経済成長期は大勢の人が印鑑を買い求めた。時代の変化で脱はんこの流れが加速する中、一級印章彫刻技能士として、磨いた技術を生かしている。 1938年、朝鮮の大邱市で生
「つらい荒波を渡ってきたが、それも自分の肥やしになった」と半生を振り返るのは、40年以上犬の訓練士として活躍した苫小牧市見山町の立花栄治さん(65)。 穂別町(現むかわ町)に生まれ、1歳で苫小牧市に引っ越した。両親は体が弱く、当時は貧しい生活だったという。1972年に苫小牧東高校に入学した
教員生活にピリオドを打ち、この春、厚真町で力を入れている「ふるさと教育」の推進コーディネーターとしてやってきた。「マーさん」のあだ名で子どもたちから親しまれ、地域と学校現場の”橋渡し役”として奔走する日々。「自ら体験することで『古里っていいな』『心が落ち着くな』と感じ、住ん
今年で創立30年を迎える市民交流団体「樽前山を語る会」は、父の勉さん(2016年に逝去)が郷土の象徴である樽前山(1041メートル)の美しさを将来へ語り継ごう―と1992年5月に結成。長男の博さんは父の死後、弟の智さん(69)と会の運営を引き継いだ。結成当初500人以上いた会員は、高齢化と会員の物
シラカバ並木の中の一本道が描かれた油彩画「道」。苫小牧市明徳町の画家片山弘明さん(74)が、20代の頃に歩いた旭川の風景を思い出しながら、2020年に完成させたものだ。「人生は曲がりくねった道のようなもの。今の年齢だからこそ、自分の歩んできた道を振り返って描けた作品だ」と語る。 1947年
「負けるけんかはするな。人にだまされても人はだますな。これが人生の教訓」と語るのは岸邦俊さん(82)。研究者や商売人、経営者とさまざまな職種を経験し、自身の半生を「波瀾(はらん)万丈。損得勘定よりも自分のやりたいことを徹底してきた」と振り返る。 1939年、6人兄弟の4男として岡山県津山市
全国の都市・企業の熱気と誇りがぶつかり合う都市対抗野球大会。1974年の第45回大会、大昭和製紙北海道が黒獅子旗(優勝)を白老町に持ち帰った。初めて津軽海峡を渡った黒獅子旗に、まちは歓喜に包まれた。「まちの人が大勢応援してくれましてね。今でも感謝の気持ちでいっぱいです」。三塁手として体感した興奮は
オホーツク管内遠軽町で生まれた。古里のことを聞かれたら、胸を張って「自然豊かで、食べ物がおいしい良い町」と言える。苫小牧で生まれた自身の子どもたちにも故郷を誇りに思ってもらいたい―。苫小牧市職員として働く傍ら、苫小牧レクリエーション協会の創設や運営にも携わるなど地域活性化に尽力した。「活動で得た交
とまこまい港まつり、とまこまいスケートまつりなど、苫小牧市内で開かれる大きなイベントにはデジタルカメラを持ち、欠かさず足を運んできた。会場で出会った人とあいさつを交わし、シャッターを切る。希望も聞いて、写真をプリントし、プレゼントもする。しかし、昨年来、新型コロナウイルスの流行でイベントが軒並み中
「今の私や会社があるのは周囲の方々がいたから」。志田修二さん(83)は語る。 1938(昭和13)年に山形県米沢市で生まれ、幼少期から実家の米農家の手伝いに励んだ。「代掻き」は兄がくわを持ち、自身が馬を引いて行う大変な作業だったが、兄との大切な思い出でもある。走ることが大好きだった修二さん
大漁旗をたなびかせた真新しい漁船の写真が宝物という。長男の政徳さん(45)が4年前、初めて手に入れた新造船だ。船名は、自分が乗っていた船と同じ「第一一八錦洋丸」。跡継ぎとして頑張る息子を誇らしく思う。 戦争が終わって2年後の1947年、白老村(現白老町)で漁業を営む家に生まれた。中学校を卒
苫小牧で運送会社を経営する丹治秀寛さん(70)は、苫小牧ボート協会会長として競技発展に尽力してきた。「底辺の拡大がまだまだ。自然と触れ合いながらできるスポーツとして、ボートに興味を持ってもらいたい」と話す。 苫小牧市植苗生まれ。植苗小、植苗中を経て駒大苫小牧高校に進学した。卒業後は北海道自
現代と比べ、結婚して子どもがいる女性が働くことが一般的ではなかった1969(昭和44)年。苫小牧市内で菅原編物学院を設立し、生徒に編み物の楽しさや奥深さを伝えてきた菅原節子さん(85)。「学び続けることは私の使命」と話し、80歳を超えた今も、最新の流行を敏感に取り入れたデザイン研究や作品制作に打ち
食べることが好きで、おいしい食べ物を追求している。苫小牧市内でパン店を開業後、移転先にカフェを併設した。道産食材をふんだんに取り入れたメニューを味わうことができる。道産品の活用や業界の発展を考え、これまで培ってきた技術を開業希望者に伝えようと準備を進める。 1977年1月、登別市で生まれた
電器店一筋43年、倉下電機(苫小牧市清水町)社長の倉下健次さん(63)はきょうも「まちのでんきやさん」として、苫小牧じゅうを駆け回る。 少年時代から機械いじりが趣味で、「高校生の頃はバイクを自分で修理していた」と語る。専門学校へ進学後、学校宛てに届いた求人票の中から、当時苫小牧市内に5店舗
胆振東部消防組合消防署厚真支署に消防士として入署し、引退するまで約40年にわたり厚真を拠点に町を守ってきた吉村正弘さん(68)。その一方で、定年後の2018年9月には「絶対に忘れることはない」という胆振東部地震で富里の自宅が半壊し、たくさんの仲間を失った。地域の災害と向き合う人生を歩んできた。