光洋町町内会長 都築 秀男さん(81) 仕事一筋 全国飛び回る営業マン 旅先で集めた鉄道切符 唯一の趣味 思い出の品で懐かしい交流も
- 2021年6月12日
苫小牧市光洋町町内会長の都築秀男さん(81)は「仕事一筋の人生だった」と半生を振り返る。電気柵の営業職として全国各地を飛び回った20代から40代にかけて、旧国鉄時代の乗車券を集めてきたことが「人生唯一にして最大の趣味だったかもしれない」とほほ笑む。 1939(昭和14)年10月、旧樺太(現
苫小牧市光洋町町内会長の都築秀男さん(81)は「仕事一筋の人生だった」と半生を振り返る。電気柵の営業職として全国各地を飛び回った20代から40代にかけて、旧国鉄時代の乗車券を集めてきたことが「人生唯一にして最大の趣味だったかもしれない」とほほ笑む。 1939(昭和14)年10月、旧樺太(現
苫小牧市植苗の自宅に作業場を構え、個人客からの注文を受け洋服の仕立てや修繕などを手掛ける竹田由紀子さん(76)。年に2回、市内で行われるハンドメード作家の作品販売の場「てづくり市」を主催する「美寿(みすみ)企画」代表も務める。「これまでの人生は、長男の病気無くしては語れない」と振り返る。
スキー板とストックを自在に操り、雪上を一目散に滑走した。見事1位でゴール。両手に抱えきれないほどの賞品のお菓子を獲得し帰宅すると、当時7人いたきょうだいの大歓声にいつも迎えられた。「誇らしかったね」。物語の主人公は北海道クリーン開発社長の伊部廣明さん(75)だ。 家族の勧めで幼少期からクロ
いじめ、借金、2度の離婚とさまざまな苦難を乗り越えてきた苫小牧市弥生町の主婦及川久美子さん(62)。どんなときも笑顔と感謝の気持ちを持ち続けた。「生まれてきたからには何か役に立って死にたい」と5年ほど前から、アイヌ語を記したトランプなどを自費で作ってきた。 旧静内町(現新ひだか町)出身。母
苫小牧市内の盆踊りで太鼓をたたいたり、苫小牧駅前通商店街振興組合の会報を製作したりと、さまざまな形で地域の活性化に携わってきた。「どうせやるなら、義務感ではなく、楽しんでできるかどうかが大切だ」と説く。 旧門別町(現日高町)で、6人きょうだいの末っ子として生まれた。両親が音楽好きで、家では
苫小牧市で1971年から市議会議員を8期(32年)務めた。市内で初めての女性議員。女性の社会進出や命を大切にする社会づくりを訴えた。市政のみならず、地域住民から私生活の相談をされることも多く、忙しい日々を過ごしたが「心の支えとなり、道を開いてあげなくては」と親身になって話を聞いた。 苫小牧
囲碁に触れたのは、苫小牧西高校3年生の頃だ。きっかけは4歳離れた兄だった。大学で囲碁を覚えた兄が帰省したとき、簡単なルールを説明され、暇つぶしの相手をさせられた。「最初はめちゃくちゃに負けてね。それが何か悔しくて」 クラスに偶然、祖父から囲碁を教わっていた同級生がいて、彼が学校に手作りの碁
苫小牧市役所を定年退職するのをきっかけに2007年、市内日の出町から青雲町に転居し、自宅を構えた。中心街からは離れたが、自然豊かで空気の良い街並みに「ここに住んで良かった」と笑顔を見せる。 旧鵡川町(現むかわ町)で生まれ、小学校は千歳北栄小。3年時に入団した野球少年団では「ピッチャーでエー
「少年団活動は競技力向上だけでなく地域振興にも役に立つ」と話すのは、苫小牧北斗サッカースポーツ少年団でコーチや監督を務め、現在は団長の佐々木聖剛さん(74)。今年2月には長年の功績が認められ、日本スポーツ少年団顕彰を受賞した。 日高管内平取町に生まれ、荷負中学校時代は野球に打ち込んだ。苫小
白老町白老の道道白老大滝線沿いで黒毛和種を飼育する天野ファミリーファームの朝は早い。「おはよう、きょうも元気か」。牛舎の1頭1頭にそう声を掛け、餌や水やりなど忙しい一日が始まる。牛の気持ちに寄り添って世話をすれば、立派に育ってくれる。生産する白老牛の枝肉は昨年も最高ランクの格付けを受けた。牧場近く
66歳で歌の世界に飛び込んだ松山陽子さん(72)。度重なる病気に悩まされながらも、明るい性格と全国にいる仲間の存在で前向きに乗り越えてきた。「新型コロナの感染拡大が収まったら、また全国各地を飛び回りたい」とほほ笑む。 苫小牧市出身。高校卒業後、市内の企業に就職し、23歳で市職員の夫・強さん
半世紀以上にわたり、道内外で道路の舗装工事を手掛けた。夜間や冬の厳しい環境でも工事が行われ、作業員が労働災害で命を落とす事例も見聞きしてきた。安全第一を誓い、毎年、早朝の安全集会で事故防止を呼び掛ける。数々の地域貢献事業にも取り組む日々だ。 1945年3月、静内町(現・新ひだか町)で生まれ
2020年4月に厚真町の厚南中学校に赴任した。校長として初めての学校。「ここの子どもたちや地域のために自分は何ができるか」―。教員たちと何度も膝を付き合わせ、知恵を出し合う日々だ。 中学生の頃から「学校の先生になりたい」という揺るぎない思いがあった。「その当時の先生や仲間が思わせてくれた」
自然観察グループや文学サークルの事務局長などとして活動してきた山上正一さん(75)。幼少期から体が弱く、病気のために大学を中退して以降は「余生のような人生だった」と振り返る。複数団体の事務局を掛け持ちした時期もあり「人の役に立つことが喜び」と語る。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って巣ごもりの風潮
元国鉄職員らでつくる北海道鉄道OB会苫小牧支部で、事務局長として15年近く活動する蛯澤曙美さん(83)。同会が5~11月に毎月行っている苫小牧市科学センター保存の蒸気機関車(SL)「たるまえ号」の清掃活動には、ほとんど毎回参加している。現役時代は事務職でSLを操縦することは無かったが、「国鉄、JR
苫小牧との最初の縁は三笠市の三笠中2年生だった1967年、中学軟式野球の北海道大会に出場したときだった。各地区の予選を勝ち抜いた参加校が、開会のセレモニーで苫小牧市大町の一条通りを紙吹雪が舞う中行進した。「あの情景は今でも覚えている。すごかった」と渡辺臣章さん(67)は懐かしむ。 5年後、
ハイヤーからトラック、バスまで、あらゆる車の運転手として仕事をする傍ら、空いた時間に趣味の写真撮影で「北海道中を走り回った。道内で行ったことのない市町村はない」と胸を張る。 8人きょうだいの末っ子として十勝管内芽室町の農家に生まれた。新制鹿追中学校(同管内鹿追町)の第1期卒業生。豆や芋など
生まれ育った地域で、見守り活動を続ける苫小牧市出身の大川芳子さん(68)。コロナ禍においても、市民生委員児童委員として地域住民の体調に気を配る。「どれだけ役に立てているのか」と謙遜しながらも、周囲からは頼りにされる存在だ。市内沼ノ端中央地区の約160世帯を担当。約30世帯ある1人暮らしの高齢者も「
苫小牧市新富町に本店を構える「花のみずの」は市内で計6店舗を展開。入学シーズン、母の日、クリスマス、正月―など年中行事に合わせて店内を装飾し、色とりどりの花を販売している。「お客さんに季節をお知らせしていくことを大事にしている」と代表の水野早重さん(69)。花屋の道に進んで約50年になる。「花が好
政府の行為によつ(っ)て再び戦争の惨禍が起ることのないや(よ)うにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する―。 この一節を含む前文から日本国憲法は始まる。「最初は憲法と法律の違いも分からなかった」と頭をかく、苫小牧九条の会事務局長の佐々木功さん(75)。「
「単身赴任から帰ってくると、ほっとしましたね」。竹浪隆志さん(69)は苫小牧への思いをそう語る。 1951(昭和26)年に渡島管内森町で生まれ、実家は野菜が主の畑作農家。小学生の頃から日曜・休日には収穫などの農作業を手伝い、中学入学後は毎朝、町内の商店に野菜などを配達してから登校する日々が
「落ち葉を迷惑がる人もいるが、(酸素を出す)葉のおかげで息をしていられる。『ご苦労さま』と言わないと」。優しく語る大井正美さん(78)の森に対する愛着は深い。2007年に苫小牧市静川で開催された全国植樹祭の地「苫東・和みの森」で市民、企業、行政でつくる団体の会長として森づくりに励む。 高松
会社で働きながらクラブチームに所属し、朝野球などでプレーし続けた山下寿雄さん(71)は10月、チームメートが催した「引退式」に臨み、現役に終止符を打った。「これからは応援に回って野球を楽しみたい」と笑顔を見せた。 空知管内上砂川町出身。野球を始めたのは小学2年の頃で、町内の少年団に所属した
「1はシネプ、2はトウプ、3はレプ…」。口元に入れ墨(シヌイエ)を施した祖母が、かやぶき家屋チセのいろりのそばで、アイヌ語の数え方を教えてくれた。哀愁のある響きの即興歌ヤイサマも聞かせてくれた。母親が病に倒れた5歳の頃から1年半、預けられた白老コタン(現在の白老町大町・高砂町付近)の
若い頃は仕事と生活に精いっぱいで、自分が住む地域には全く興味がなかったが、年を重ね、住民同士で支え合って暮らすことの大切さを実感。自治会活動に熱心に打ち込むようになり、40年がたとうとしている。「みんなが安心して暮らし続けられるまちをつくりたい」と、言葉に力を込めた。 十勝管内本別町で幼少
老舗料理店の4代目として、少年時代からの夢である料理人となり、日々腕を振るう。業界団体の役員を歴任して長年の功績が認められ、国や道、業界団体から数々の表彰を受ける。後進の育成に当たっては、調理の基礎を磨きながらも遊び心を持ち、才能や個性を引き出すことをモットーとしている。 1955年、苫小
「おそらく奥尻島以外は全て回ったのではないかな。北海道のことならいくらでも話せるし、誰よりも知っていると思うよ」 そう自信満々に話す。神奈川県鎌倉市で生まれ育ち、北の大地には縁もゆかりもなかった。だが、恵まれた自然、今はなくなった駅舎や廃線になった鉄路を自らの足で歩いて写真にまとめ、詳細に
合唱との出合いは、18歳の時。北海道大学に入学して間もなく、友人に誘われるままグリークラブ(男声合唱団)の部室を訪れた際、室生犀星作詞の「ふるさと」が廊下まで聞こえてきた。温かなハーモニーに一瞬で心奪われ、合唱と共に歩む人生をスタートさせた。 小学校中学年の時、音楽の授業で教員に歌詞の読
道内の高校で約37年間、国語教師や教頭を務め、現在も苫小牧市文化交流センターで行う「とまこまい市民カレッジ」の講師として教壇に立ち、古文や漢文、近代文学を教える。「人生、死ぬまで学生」の理念を胸に、教育と真摯(しんし)に向き合う探究心は絶やさない。 幼少の頃から、絵本を暗唱できるまで読み込
1979(昭和54)年夏、苫小牧市青葉町の自宅に届いた回覧板に少年野球チーム大成クラブの勧誘ビラが挟まっていた。小学2年生になった長男に野球をさせたいと考えていたころ。指導者募集の一文もあり、「お手伝いしてみるか」と掛橋仁一さん(73)は軽い気持ちでチームの会合に足を運んだ。その後間もなく、グラウ