◇18(最終回) 昭和30年 子どもたちの夢 子どもたちを支えた昭和の大人たち 「今度は僕が働き手」で夢実現へ 風景今昔 遊びはゲーム、ユーチューブ 買い物は大型店、ネットで
- 2024年12月23日
「昭和の街角風景」は、今回で終了する。昭和30年代前半、特に昭和30、30年の写真を多用したのは、社会が「敗戦」の暗さを引きずりつつも希望に向かって進もうとする時期の始まりであったこと、さらに具体的には苫小牧でテレビ放送が一般化する直前の時期であったことなどによる。以降、子どもたちや家族、街の風景
「昭和の街角風景」は、今回で終了する。昭和30年代前半、特に昭和30、30年の写真を多用したのは、社会が「敗戦」の暗さを引きずりつつも希望に向かって進もうとする時期の始まりであったこと、さらに具体的には苫小牧でテレビ放送が一般化する直前の時期であったことなどによる。以降、子どもたちや家族、街の風景
戦後も昭和30年を過ぎると世の中はどうにか落ち着き始め、多くの人々が人らしく、子どもたちが子どもらしく暮らせるようになってきた。だが、この中で、なお悲惨な目に遭っていたのは、人間の良き友であるはずの犬たちだった。各地で昭和20年代から毎年「野犬掃討」が実施され、同50年近くになってもそれは行われ、
買い物客が商品棚から買いたい物を籠に入れ、レジで精算するという買い物風景が定着したのは、昭和40年代ごろのことのようだ。「この新しいシステムはとても便利で楽しい」という主婦の感想が、昭和30年代の新聞に見られる。その後、「週に1度、車で郊外の大型スーパーに買い出しに行く」というのがはやり出した。移
昭和31(1956)年4月、苫小牧市が市内全戸を対象に、前年度の燃料の消費調査をしたところ、石炭とまきを合わせて燃料としている世帯が一番多く、次に「まきだけ」、「石炭だけ」と続いた。この時代「石油」はまだ家庭用の燃料としては一般化されていない。石炭やまきに続いて「木の皮」というのがあった。誰もが、
昭和31年といえば、前年に始まった高度経済成長の波が地方にも寄せて来た頃で、苫小牧でテレビが売り出されたのがこの年。もう一つ、大人気だったのが子ども用自転車で、前年はさほどでもなかった売り上げが「ものすごいほどになった」という自転車店もあった。1店で80台ほども売り上げるのはざらで、入学祝い、進学
敗戦後の食糧難は昭和25、26年にはずいぶん改善され、昭和28年ごろには化粧品なども一般に出回り始めて、人々は窮乏から次第に抜け出していった。代わって大きな問題となったのは、公衆衛生、特に赤痢などの伝染病予防であった。便所はくみ取り式で台所排水も浸透槽式。家庭から排出されるごみは屋外に置いた木製の
戦後間もなくから40年ほど前までの30数年間、支笏湖の近くの豊かな森の中に「苫小牧市立丸山小学校」という小さな学校があった。戦争で荒廃した森林の復興、洞爺丸台風(昭和29年)の風倒木処理で多くの営林署職員、林業者がこの地で生活し、その子どもたちが通った。苫小牧の街からおよそ20キロ。その学校で学ぶ
「道路」というものが、生活の場から交通網という都市施設へと変わり、身の近くから離れていったのは、いつの頃からだったのだろう。今、年齢が70歳前後の人たちなら記憶にあるかもしれないが、昭和30年代まで子どもたちが道路で遊ぶ風景は当たり前に見られ、その道路を近所の人たちが掃除をし、日曜日の朝には子ども
昭和35年4月、8年前に開店した苫小牧初の総合デパート「鶴丸百貨店」が3階建てに増築され、その屋上に「飛行塔」ができた。ゴールデンウイーク初日の29日、屋上開きが行われ、飛行塔は親子連れに大人気。子どもたちはぐるぐる回る飛行機から発展する街を眺め、夢を膨らませた。苫小牧港の内陸掘り込みが急ピッチで
夏にちなんで、苫小牧のプールの風景の変遷を見る。苫小牧に最初にプールができたのは昭和初期のこと。夏でも気温が上がらず、水泳には縁遠いと思われる苫小牧だが、どっこいこれが大外れで、50メートルプール(長水路)の北海道でのさきがけであり、道内各地から選手が集まる多くの競技会が開催され、また、昭和30年
30キロ及ぶ海岸線を持つ苫小牧で、「海に親しむ」という課題が掲げられたのは、苫小牧港ができてから半世紀の間のことかもしれない。それ以前の苫小牧の海岸はといえば広く砂浜が続き、「築港」の時代(昭和26~38年)でさえ海辺で生活し、遊ぶ多くの人々の姿があった。むろん、遊泳などは禁止されていたが、それで
前回掲載した東小学校の遠足の写真について、「これは私が小学1年生の時の遠足の行列。大きく写っているのは1年3組で、この列の中に私がいるはず」と読者から連絡を頂いた。「大野踏切」を渡り、坊主山に向かった記憶があるといい、「東小もやはり坊主山でしたか」とひとしきり話が弾んだ。今回は「運動会」を取り上げ
「遠足」という学校行事は、いつの時代から始まったのだろう。明治33(1900)年の文部省通達に「兵式教練」の一環として水泳などとともに遠足を教育の中に取り入れるようにとの指示があったというから、多分それ以前から何かの形で遠足らしきものがあったに違いない。体を鍛える、集団行動に慣れる、社会見学、そし
この紙面に掲載されている古い写真は、現在70歳くらいの人たちの子ども時代の風景だ。「おおらかな時代だった」「伸び伸びと遊んだ」「ずいぶんヤンチャもした」…と、楽しかった思い出が湧き出してくるだろう。でも、よく考えると、危険で、怖くて、腹が減って、痛くて、ひやりとした記憶も、楽しい思い
昭和30年代になると、戦中戦後の物不足から解放されて、生活もほぼ落ち着きを見せた。苫小牧ではベビーブームと樺太など外地からの引き揚げが重なって人口の増加が加速し、特に就学年齢の子どもの数が飛躍的に増えて、行政を慌てさせた。王子製紙は戦後間もなくから昭和30年代初めにかけて社宅をどんどん建て、社宅街
少年クラブ、少女クラブ、ぼくら(以上講談社)、少年(光文社)、おもしろブック、幼年ブック(集英社)、冒険王、漫画王(秋田書店)…など、敗戦後の耐乏生活からようやく抜け出した昭和30年前後、子どもたちが心躍らせる漫画雑誌が書店の店頭に数多く並んだ。「鉄腕アトム」(手塚治虫)や「鉄人28
私たちはこれから1年間にわたって昭和30年代の苫小牧を歩きながら、その街角の風景を眺める。そしてできれば、その風景の中に子どもたちの表情を見つけていきたい。なぜ昭和30年代かといえば、便利と不便、伝統と進歩、今の世の正と負につながる多くの要素が混在する興味深い時代だからであり、なぜ子どもかといえば