◇9 昭和31~39年 水泳プール 苫小牧は水泳プールの先進地 戦後は「王子」から「学校」へ 風景今昔 わずか5年で水着も激変 遊泳禁止の佐羽内沼にも

王子プールで水泳を楽しむ子どもたち(昭和31年)

 夏にちなんで、苫小牧のプールの風景の変遷を見る。苫小牧に最初にプールができたのは昭和初期のこと。夏でも気温が上がらず、水泳には縁遠いと思われる苫小牧だが、どっこいこれが大外れで、50メートルプール(長水路)の北海道でのさきがけであり、道内各地から選手が集まる多くの競技会が開催され、また、昭和30年代からは行政と父母らが協力して学校プールを造った歴史を持つ、プール先進地であった。プール事情とそこに集まる人々の表情から、郷土の歴史を感じ取ろう。(文中敬称略)

   ■最初のプール

   海沿いの街なのに波が荒くて海水浴ができない苫小牧。でも、他に泳ぐ場所がないから海で泳ぎ、毎年のように子どもたちが犠牲になった。

   「それなら、海に防波堤のように丸太を連ねて浮かべ、一区画を仕切ってプールにしてはどうか」と昭和の初頭、王子製紙に勤めていた人たちが考えた。丸太を使うというのが、いかにも王子城下の苫小牧らしい。だが、この試みは丸太が波に流されて失敗に終わった。

   それで今度は、今の矢代町にあった樽前山神社の横の川と沼を利用してスケートリンクを造っていた西田信一(当時町土木主任、後に参院議員)を中心とする苫小牧スケート協会が、スケートリンクの一部を整備してプールを造り、これを樽前山神社外苑プールと呼んだ。水泳プールをスケート協会が造ったというのもまた、苫小牧らしい。この外苑プールが道内の50メートルプールの先駆だったというが、水底は土で、水質は決して良いものではなかったようだ。これができたのが昭和7、8年のこと。

   ■にぎわう王子プール

   この後間もなくできたのが王子プール。工場内の空地を利用してスケートリンクやプールを造った。これも50メートルプールで、子ども用の浅い部分と競技用の深い部分に分かれたコンクリート製の立派なもの。従業員ばかりでなく市民にも開放したから大いににぎわい、全道都市対抗や、神宮大会北海道予選など全道規模の大会も開かれた。

   ところが戦後十数年、経済成長が著しく、東京五輪(昭和39年)に向けて新聞用紙の需要が高まる中で、王子製紙は大型高速抄紙機を備えた新工場を造ることになり、すでに老朽化していたスケートリンクとプールは、その敷地となって撤去されることになった。困ったのは、それまで王子頼みだった苫小牧市だ。この頃、海で遊ぶ子どもの水死事故が続発していたから、婦人団体やPTAが相次いで市にプール設置を求めていた。このため、市は700万円の予算で西小と東小にプールを造った。それが昭和37年のことだ。

   ■相次ぐ学校プール開き

   「苫小牧東西両小学校のプール開きが(7月)20日、それぞれ行われた。この日は小雨の降る悪天候で、プール開きにはほど遠い感じだったが、それでも子どもたちは待望のプールが完成したという喜びでプールの周りに集まった。プールサイドには田中正太郎市長も出席。(略)川村教育委員長が紅白のテープを切り、(東小では)橋浦、斉藤両教諭が模範遊泳を行って賑やかなプール開きが終わった」(昭和37年7月21日付「苫小牧民報」)。

   この後、翌昭和38年に勇払小と緑小にプールが造られ、同39年には北光小に新設されるとともに東西両小学校のプールには浄水機が設置された。プールはいずれも長さ25メートル(短水路)、幅15メートルの規模で、これを「標準型」とした。これより以前の昭和36年には柏原小学校に小型の「簡易プール」が造られ、同様の簡易プールは昭和38年には植苗小中学校、樽前小学校にも設置され、教育や水泳の関係者は「苫小牧の学校プールは全国に誇れる施設」と胸を張った。

   いずれも市の独自財源で国や道からの補助金はない。簡易プールについては「防火水槽」という名目で市が材料費を捻出し、建設作業は地域やPTAが協力した。市民と行政のそんな関係がこの頃にはあった。

     (一耕社・新沼友啓)

   本欄上に掲載された写真の場所は王子プール。驚くのが男の子のふんどし姿だ。三角の黒い布にひもが付いているだけの通称「三角ふんどし」。ふんどしが使われていたのは、もっと昔の話だと思っていたのでこれにはびっくり。丸刈りの男の子たちの体つきが筋肉質で立派だ。毎日元気に遊んでいることがよく分かる。

   女の子はスクール水着のようなものを着ている子もいるが、パンツ姿の子もいる。今では考えられない光景だ。

  子どもに付き添う大人の姿が見えない。この頃は小学校中学年ほどにもなると兄弟や友だちと一緒にプールへ行っていた。親は送り迎えなんてしない。中学生ぐらいになると、遊泳禁止だと分かっていても佐羽内沼で泳いでいる子もいたという。

   紙面中段の写真は昭和35、36年ごろの様子。子どもたちがみんな水着を着ている。たった5年ほどで子どもたちの装いがこんなにも変わっていることに驚く。それだけ急激に生活が豊かになったということか。

   王子プールがあった場所は、現在の王子製紙工場構内になってしまった。そこで佐羽内沼があった場所を訪ねてみた。今は埋め立てられて住宅地になっているが「さばない」という名を残した公園があった。沼はこの公園辺りから勤医協苫小牧病院近くまで大きく広がっていたのだそうだ。ボートに乗ったり小さなエビを捕ったり、冬はスケートを楽しんだという。佐羽内沼が今もまだあったとしたら、叱られるのを覚悟で泳ぐわんぱく坊主はいるだろうか。

  (一耕社、斉藤彩加)

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