【8】苫小牧市大町で終戦 苫小牧市大成町在住 嶋﨑(しまざき)宏史(ひろし)さん(89) 苫小牧でもあった空襲
- 2024年8月14日
10歳の時、苫小牧空襲を経験しました。サイレンが鳴り響き、母と妹、弟を連れて防空壕(ごう)に避難した記憶があります。その中で、米軍の爆撃機が攻撃してくるのを見上げていました。 海上からの艦船による艦砲射撃の際は家族と家にいましたが、突然「ドーン」という大きな音が聞こえた後、ビリビリと窓ガラ
10歳の時、苫小牧空襲を経験しました。サイレンが鳴り響き、母と妹、弟を連れて防空壕(ごう)に避難した記憶があります。その中で、米軍の爆撃機が攻撃してくるのを見上げていました。 海上からの艦船による艦砲射撃の際は家族と家にいましたが、突然「ドーン」という大きな音が聞こえた後、ビリビリと窓ガラ
私が4歳の頃、父は陸軍で支那事変(日中戦争)を経験しました。復員した時、家族で喜び合った日のことを時々思い出します。叔父2人も出征し1人はフィリピン・ルソン島で戦死、もう1人はインドから無事に帰りました。 1943(昭和18)年のアリューシャン列島アッツ島の戦いで、日本陸軍が玉砕した時のこ
札幌市で終戦を迎えました。明治生まれの頑固で厳格な父は、逓信病院(現・NTT病院)の勤務医。両親と次女の私を含むきょうだい5人、祖母、曽祖母の9人家族でした。 終戦の年は13歳で旧制女学校の2年生。授業はほとんどなく援農(畑仕事)や工場での包装作業に明け暮れ、毎日くたくたでした。
樺太(現サハリン)の恵須取町で生まれました。終戦の1年前、父はニューギニア(現パプアニューギニア)のビアクという小さな島で戦死しました。当時私は4歳と幼く、父の事は覚えていません。 玉音放送は、広場のような所で近所の人と一緒に聴きました。終戦前かその後かははっきり覚えていませんが、ソ連軍が
5歳の時に本別町で、本別空襲を経験しました。私の家から10キロほど先に仙美里という町があり、そこに日本軍の養成所がありました。米軍は養成所に向かう途中の橋を目掛けて空爆を続けており、いつも大きな爆発や戦闘機の姿におびえていました。 1945年7月15日の午前8時ごろ、住んでいた集落が攻撃さ
終戦を迎えた場所は旧椴法華村(函館市椴法華地区)で、5歳の頃。その年は函館空襲があり、恵山灯台が破壊焼失しました。父は国民学校の校長で夏休み、(オホーツク管内)美幌町の農家まで食糧を得るため、母と農作業の手伝いに出ていて不在でした。 椴法華村は米軍艦載機の爆撃に遭い、焼夷弾で学校が焼けまし
利尻島鬼脇(現・利尻富士町鬼脇)で生まれ育ちました。5人きょうだいの2女。隣町の清川地区に兵舎があり、わたしたち子どもは慰問でダンスなどを披露していました。銀行員だった父は出征しませんでした。 終戦の日は9歳でした。島には無かった雑穀やでんぷんを求めて母と姉、妹、当時1歳の弟と一緒に、食糧
5歳の時に太平洋戦争が開戦し、幼い頃の記憶は戦争一色です。7人姉妹の6女だったので、きょうだいを戦地に送った経験はなく、日の丸に囲まれて出征する兵隊を見送るたびに「格好良いな、うらやましいな」と思っていました。 通っていた増毛国民学校では、校門前に立つ高等科の先輩や教育勅語の謄本が収められ