5歳の時に本別町で、本別空襲を経験しました。私の家から10キロほど先に仙美里という町があり、そこに日本軍の養成所がありました。米軍は養成所に向かう途中の橋を目掛けて空爆を続けており、いつも大きな爆発や戦闘機の姿におびえていました。
1945年7月15日の午前8時ごろ、住んでいた集落が攻撃されました。母親に手を引っ張られ、急いで防空壕(ごう)に逃げました。そこから3日間、空腹に耐え、捕らわれるかもしれない不安を抱えながら過ごしました。いざ外に出ると、焼け野原になった集落が広がり、生きている心地がしませんでした。直径5メートルはある巨大な爆弾による穴もあり、恐ろしくて体が震えました。
終戦を告げる玉音放送は近所の人らとラジオで聴きました。大人たちは「やっと終わった」と声を上げて泣いていました。その後は食糧難に苦しみ、ウサギやスズメなど、食べられるものは何でも食べました。時々、アメリカ人からガムや缶詰をもらっていました。彼らの目には優しさがあり、本当は戦争を起こしたくなかったんだと感じました。
戦争は何も関係ない町民にも危害を加え、町の再生に多くの時間とお金を費やしました。二度と同じ思いをする子どもが現れないことを祈っています。でも、食べ物がなく、平和が当たり前じゃなかった時代もあったことは知ってもらいたいです。なぜなら、それが戦争を抑制すると思っているからです。