(17)行く末 幼少期にスポーツ多種経験を 本場カナダで知った当たり前
- 2020年7月2日
指導者人生最後の舞台は、2020年1月に帯広市で開かれた全国高校総合体育大会。苫小牧東高は選手数17人と決して潤沢ではないチーム状況に加え、本番前に主力のけがも多発したが、5年ぶりの全国8強入りを果たしてくれた。 続く南北海道新人大会は、10人の少数精鋭ながら何とか2勝1敗1分けの3位に入
指導者人生最後の舞台は、2020年1月に帯広市で開かれた全国高校総合体育大会。苫小牧東高は選手数17人と決して潤沢ではないチーム状況に加え、本番前に主力のけがも多発したが、5年ぶりの全国8強入りを果たしてくれた。 続く南北海道新人大会は、10人の少数精鋭ながら何とか2勝1敗1分けの3位に入
小学生のころ、苫小牧東高のグラウンドで毎冬、スケートリンクづくりに精を出す父の正をまねて、兄の正志と家の庭にリンクをよくつくった。「水道代がもったいない」と母の元子に叱られながら台所の蛇口につないだホースを延ばして水まきをした。ひと滑りしてから登校するのが日課だった。 苫東高在学時に記憶し
教え子たちが高校を卒業するとき、決まって言うせりふがある。「もう一回このチームでアイスホッケーがしたい」。支え合い、時に衝突しながら苦楽を共にした仲間たちとの別れを惜しむ気持ちはよく理解していた。でも以前なら、私は彼らに「10年、20年後も同じメンバーでホッケーができればこんなに楽しいことはない。
「先生にぴったりな人がいるんですけど」―。苫小牧東赴任2年目の2008年、アイスホッケー部の外部コーチを務めてくれていた元王子製紙FWの飯塚祐司さんがおもむろに声を掛けてきた。彼はその頃から女子日本代表の指導で多忙になり、練習を満足に見られなくなっていた。 私は苫南、苫西の両校で計19年、
2007年の苫小牧東高赴任と同時に、4人の1年生女子生徒がアイスホッケー部に仲間入りした。その中にダイヤモンドの原石のような選手がいた。大澤ちほ、鈴木世奈、米山知奈。14年ソチ(ロシア)、18年平昌(韓国)の両五輪女子アイスホッケーに出場した日本代表「スマイルジャパン」の主力だ。 大澤は王
苫小牧東高在学時代の1学年上の先輩、池田正幸さん、細田秀夫さんら1975(昭和50)年卒業組が、当時の1、2年生にも声を掛けて結成した仲間内のOBグループ「50(ごーまる)会」があった。97年ごろから毎年夏に父の正、母の元子も参加して家族ぐるみの道内旅行や苫小牧市内のリンクを貸し切りにして、アイス
教員人生始まって以来の緊張感にさいなまれながら、2007年4月に苫小牧東高へ赴任した。創部2年目から携わった苫小牧南、23年ぶりの男子部復興を果たした苫小牧西ではたくさんの支えもあって自分の思い通りにアイスホッケー指導ができた。ただ、母校には歴史と伝統が詰まっている。どこか神経質になっている自分が
1998年春、7人の1年生が男子アイスホッケー部の門をたたいて、当時3年になった佐藤章一ら初期メンバーを含めた部員数は2桁の大台に乗った。同好会から部への昇格とともに、23年ぶりの苫小牧アイスホッケー連盟登録をして苫小牧西高男子部が再び歩みだした。 復活を願っていた部の男子OBをはじめとし
1994年から再び苫小牧で教員生活を送ることになった。赴任先は西高校。私は女子バスケットボール部顧問に就いた。アイスホッケー部はあったが、全国唯一の高校女子部活動チーム「エンジェルス」のみで、男子の部は存在していなかった。 赴任1年目は女子アイスホッケー部監督の河原政吉教諭から頼まれ、同部
1988年4月、現桧山管内せたな町にある桧山北高校に転勤した。72年に今金と北桧山の両高校が統合して1学年に普通科5クラス、農業・生活科1クラスがあった。当然アイスホッケー文化はなく、1年目は柔道部、2年目にはバドミントン部の顧問をそれぞれ受け持った。 わんぱく者が多かったアイスホッケー選
「家では一切アイスホッケーの話をしてないことにしような」。ある日、苫小牧市旭町の実家から試合会場の表町、王子製紙スケートセンターまで歩いて向かう途中、苫小牧東監督の父、正が私に口裏合わせを求めてきた。1981年から4季にわたって父のチームと私の苫小牧南が戦い、親子対決を繰り広げた時期のことだ。
苫小牧南高指導2年目の1982年から早くも監督に抜てきされた。アイスホッケー部創部初年度を支えてくれた岡島徹さんがコーチを退任。ここから、単独の指導者として長く歩んでいくことになる。 苫南チームは言われたことをきっちりこなす忠実なホッケースタイルで、型にはまればすごみを発揮した。ただ、全国
教員生活が始まったのは1981年度。その年の3月、北海道教育委員会に行って初任校が苫小牧南になると通達を受けた。そうなるとは考えていなかった。 その2カ月前の1月に東京都内から全国高校アイスホッケー大会があった山梨県で苫小牧東を応援しに行った時、道外校と大味な試合をしているチームが苫南だっ
1977年に学生スポーツに憧れを抱いて早稲田大に進学。スケート部ホッケー部門に所属した。卒業後に当時の日本リーグ加盟実業団入りする村井範幸さん(古河電工)、池田正幸さん(同)、中野浩一さん(国土計画)ら苫小牧東高時代の先輩も在籍していた。 当時は苫東、釧路湖陵、帯広柏葉、八戸、日光といった
同期9人の中で一番遅れて入部した。中学時代にアイスホッケー部だったのは2人で、他は私と同じ他競技に励みながら「草アイスホッケー」を楽しんでいた生徒だった。 評判通り、父、正の指導した練習は厳しかった。スケート靴を履きたくないと思うことが何度もあった。つらかったのは冬休みの学校リンク合宿だ。
1973年に憧れの苫小牧東高に入学した。授業が始まると、二つの部活動から入部の誘いを受けた。一つはバスケットボール部。東中時代の先輩が私の存在を聞き付け、「練習に来い」と言うのだ。もう一方は、もちろんアイスホッケー部。卒業後に日本リーグの国土計画(当時)で活躍した1学年上の細田秀夫さんが、毎日昼休
1957年4月初旬に生まれた。祖父は初代苫小牧市長の正太郎、父は苫東高アイスホッケー部を35年間率いて10度の全国高校総合体育大会制覇などを成し遂げた正。祖父の代から続く「正」の字は、兄の正志と私にも受け継がれた。母、元子の1字も使って「正元」、春に生まれたから「正春」。いろいろ案はあったが、最後