(4)村上 冨太さん(96) 「国のため」当たり前の時代 支給品は毛布と竹の剣
- 2020年8月15日
通称”赤紙”と呼ばれていた薄紅色の召集令状が手元に届いたのは、終戦4カ月前の1945(昭和20)年4月22日、村上さんが21歳の時だ。 愛媛県大洲市に生まれ、9歳の時に家族が現在のむかわ町穂別に農家として入植。村上さんはそのまま愛媛に残り、尋常小学校を卒業後は歯科医
通称”赤紙”と呼ばれていた薄紅色の召集令状が手元に届いたのは、終戦4カ月前の1945(昭和20)年4月22日、村上さんが21歳の時だ。 愛媛県大洲市に生まれ、9歳の時に家族が現在のむかわ町穂別に農家として入植。村上さんはそのまま愛媛に残り、尋常小学校を卒業後は歯科医
1929(昭和4)年3月1日、王子製紙苫小牧工場のボイラー技師として働く父と優しい母の下、4人姉妹の三女として生まれた。太平洋戦争があった41年から45年は多感な少女時代。戦時下の援農体験や軍用機の整備修理工場があった千歳の第41海軍航空廠(しょう)で勤労奉仕をした当時の記憶がよみがえり、「私はあ
「人間を人とは思っておらず『弱いやつは死んでもいい』という考えがあの頃にはあった」。海軍特攻隊の一員として過ごした1年弱を思い出しながら語った。 敵の航空母艦への突撃に備え、練習機の操縦桿(かん)を握ったこともあったが、幸い戦地に赴くことは無いまま終戦を迎えた。除隊後は「人を大切にしたい」
捨てられた子どもたちのことを鮮明に覚えている。終戦当時は3歳。「母親はよく私を捨てないでくれた。感謝している」。樺太からの引き揚げは壮絶だった。 1941(昭和16)年8月、樺太の港町、恵須取(えすとる)町(現ウグレゴルスク)に6人きょうだいの末っ子として生まれた。父は荷揚げが仕事で、母は