ため息

ため息

 パソコンが普及し始めた頃、年賀状をメールに変えようと考えた。しかし機械の立ち上げなどが面倒で、すぐはがきに戻った。元日に郵便受けから賀状を取り出し一枚一枚読むのが楽しみな世代だ。

   メールの普及による賀状の販売枚数、配達枚数の減少は、関連のニュースで枕ことばのように扱われて、もう新味はない。この数年は論理的な賀状取りやめ通告が届く。「賀状のやりとりを終わりにしたい。付き合いはこれまでと変わらない―」。そんな趣旨だ。その通告を忘れて賀状を送っても罰則などはない。淡々と新しい付き合いの次元に移るだけだ。今年も高校の恩師から一枚、そんなはがきが届いた。何人か情熱的な級友がいて、突然の炭鉱の閉山で消えた小学校と、学級を構成していた仲間、優しかった若い担任の先生との交流の輪に加わって、何度かクラス会に参加したこともある。何十年も前のことだ。そんな関係を支える力になったのは、年に一度、行き来して近況を伝え続けた賀状だった。

   周囲との人間関係のありようや、自分の位置を考えさせてくれるのも賀状の存在意義かもしれない。後輩からのはがきを読むと、自分は冗談ばかり言っていて忠告を聞かず、次々と体を壊す困ったおじさんらしい。

   「原因の処理誤っての結果かな…という感じです。さて何のことでしょう」は今年の後輩の名句。「はいはいと二つ返事で聞き流し」が返信。大きなため息が聞こえてくるようだ。(水)