電 子 版

　一章　亀裂　そういや、母に話しかけないな。　遅まきながら、気付く。普段は父が母に「ティッシュくれ」「酒くれ」「そこの肉よそってくれ」などと細かく要求するのだが、それがない。母も「お父さん、これ食べる？」「そろそろお酒に切り替える？」「テレビ、お父さんが好きそうなのやってるかしらねえ」などと声

　一章　亀裂「あらあ」　母が顔を曇らせた。「それは心配ね」「そうだねえ。ていうか今年の筑前煮、めっちゃ美味（おい）しいね。何だろ、味付け最高」　筑前煮が盛られた大皿を、杏璃がまじまじと眺める。美都が「あ、わたしもそう思ってました」と片手を挙げて言う。「もちろんいつも美味しいんですけど、

　親切心が通じません。短気を起こさず相手の余裕のなさを考慮して対応しましょう。仕事では以前失敗した案件に取り組む可能性あり。経験を生かして積極的に進めましょう。幸運数は3と14　指導力を発揮できる時期です。これまで手詰まりだった事柄が動きだす可能性あり。周囲に声を掛けて結束力を高めてください。食事

　一章　亀裂　あえて口にすることではないから自分の中に留（とど）めているけれど、杏璃と遼子さんは付き合っているのではないかとおれは思っている。ふたりの仲はあまりに親密で、間には友情以上のものが横たわっているように見えるのだ。　少なくとも母は、おれと同様に察しているのではないだろうか。母が遼子さ

　一章　亀裂　背が高いうえしっかりした体躯（たいく）の伊東くんはレギュラーで、小学五年にして中学生や高校生に混じって練習をしていて、監督からも目をかけられている。対して音兎は百四十センチ、三十六キロと小柄で、ベンチ入りもできていない。　音兎にとって体が小さいということは大きな悩みで、伊東くんに

　お笑いコンビ「ジャルジャル」の福徳秀介の小説を映画化した「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」（大九明子監督・脚本）＝公開中＝。主人公の大学生を萩原利久、ヒロインを河合優実が演じる。◇　　◇　　◇　大九監督とはそれぞれ縁があり、「また機会をもらえてうれしい」と萩原。河合は「（2023年の初

　一章　亀裂　──あなたは弥永さんのこと悪く言わないし、実際いいひとなのかもしれないけど、あのひとの奥さんは矢雷家の遠縁だったよね？　だから逃げても許されたし、今回の解雇も免れた。そういう会社に居続ける意味なんて、ないと思うな。好条件で転職できるなら、それでいいじゃない。引きずるのは止めようよ。

　一章　亀裂　毎日遅くまで会社に残って対応をし、しかしその大半がサービス残業だった。電話に出れば名も名乗らぬ誰かから怒鳴られ、疲弊してゆく部下たちのフォローに回る時間も思うように取れず、己の無力さに絶望した。自分なりに、自分ができることをやろう。それを呪（まじな）いのように繰り返して、心の均衡を

　一章　亀裂　冷凍倉庫の奥に埋もれて霜だらけになっていて、廃棄処分にするべく外に置いていたものが、手違いで出荷されたのだ。これもまたマスコミに報道され、『あまりに杜撰（ずさん）な管理！』と糾弾された。創業五十五年、地域に愛されてきたイナズマフーズの信頼は、地に落ちた。　矢面に立ったのは、経営陣

　一章　亀裂　意外と、父がこれに異を唱えたことはない。『正月だからって、女が朝から酒など！』と言い出しそうなものだが、気にならないらしい。推奨もしなければ、否定もしない。　母のグラスが満ちたところで、父が「では、改めて」とおれたちを見回す。母は缶を置き、杏璃は気取った顔を作る。美都と音兎が背筋

　仕事に集中できない状況でも能力をフル稼働させれば良い展開が訪れます。不吉なジンクスを気にせず楽観的に過ごしましょう。工夫や努力が大きく実を結ぶ時期です。幸運数は8と15　偶然のひらめきが流れを変えます。アイデアが浮かんだらすぐに実行しましょう。仕事運は上向き。休日は屋外でリフレッシュして。興味が

　一章　亀裂「飲めばいい」　ここで冗談でも「おれが飲むからダメだ」と言おうものなら、母と杏璃から人格否定レベルで責められるだけだ。「毎年のことだって分かってるんだからさ、儀式的に確認するのやめろよ」「……、ごめん」「うわ、めっちゃ嫌な感じ。笑顔で頷（うなず）いとけばいいのに、うざ」　杏

　一章　亀裂　次いで母の「寒かったでしょうー」という声が聞こえ、一拍遅れて父の「早く入れ」と野太い声が響く。　三人でリビングに入る。暖房が効いていて、温かい空気が肺に滑り込んでくる。寒さで縮こまっていた肺が驚いたのか、むせ返った。「ちょっとお兄ちゃん、風邪？　移さないでよ」　ソファにふん反

　ヒット作「花束みたいな恋をした」の土井裕泰監督、脚本の坂元裕二が再びタッグを組んだ映画「片思い世界」＝公開中＝。広瀬すず、杉咲花、清原果耶の主演で、ファンタジーの中に現実の社会が映り込む独特の世界を描いた。土井監督は「この3人で物語を作れないかという坂元さんのひらめきが発端。見たことがないような、

　一章　亀裂「ぼく、北九州には行ったことないや。行ってみたいな。ねえパパ、そこに引っ越したりしてみない？」　音兎がぱっと顔を明るくして、おれの服の裾を掴（つか）んだ。「旅行を飛び越えて、引っ越しか」　飛躍しすぎの提案に、呆（あき）れる。「おばあちゃんの生まれと言っても、向こうにはもう親し