優しく見守って タンチョウは新しいすみかを探しています
- 2020年9月4日
近年、勇払原野でも定期的に観察されるようになってきたタンチョウですが、明治期には一時絶滅したと考えられていました。 1924(大正13)年に釧路で数十羽が再発見されて以降、保護活動によって個体が増え、生息域も道東各地に広がりました。そして現在、個体数は1800羽ほどまで回復し、道北や道央に
近年、勇払原野でも定期的に観察されるようになってきたタンチョウですが、明治期には一時絶滅したと考えられていました。 1924(大正13)年に釧路で数十羽が再発見されて以降、保護活動によって個体が増え、生息域も道東各地に広がりました。そして現在、個体数は1800羽ほどまで回復し、道北や道央に
震度6強の揺れを観測したむかわ町。鵡川地区市街地にある中央通りの商店街では、倒壊や半壊で廃業せざるを得ない店舗が数件あった。人口減少や後継者不足などの課題を抱える中で巨大地震が発生。追い打ちをかけるように新型コロナウイルスが流行するなど逆風のさなかにいるが、商店街関係者は辛抱強く復興への道筋を模索
むかわ町内では毎年8月23、24日に、宮戸地区の鵡川大漁地蔵尊堂でお祭りが催されます。「イモッペ地蔵まつり」の愛称で親しまれる鵡川地方では古いお祭りの一つです。北海道には内地にあまり見られないアイヌ語起源の地名がたくさんありますが、「イモッペ」は特に珍しい地名でしょう。芋のことではありません。諸説
「皆さん、こんにちは。『つながろう厚真』の時間です」―。 厚真町役場に設けられたラジオブース内に柔らかな声が響く。同町社会福祉協議会の職員がパーソナリティーとなり、平日昼間に放送している30分間のラジオ番組のスタートを告げる定番のあいさつだ。 同社協は胆振東部地震で大きく変わった地
「考えることはたくさんあったが、これからは生活が大変になりそうだ」 厚真町表町の仮設住宅に暮らす加賀谷俊昭さん(80)は不安そうに語る。町内宇隆でコメを作り続け、引退を考え始めた矢先に震災で自宅が全壊。2018年11月から仮設暮らしが始まった。プレハブ造りの住宅は壁が薄いため冬は寒く、夏は
新型コロナウイルスの感染が苫小牧市内で初めて確認されてから半年が過ぎ、市にはこの間1100件以上の問い合わせが寄せられた。流行当初は感情的な苦情などが多く、個人情報のさらなる開示を求める声も殺到。時間がたつにつれてこうした声が減る一方、国や道、市の対策などへの意見、質問などが増えた。世情に合わせて
「本人の同意が前提だが、従業員が感染した事実は知らせる必要がある」―。苫小牧市内の大手企業の広報担当者は異口同音に強調する。7月30日から8月1日にかけて、トヨタ自動車北海道、出光興産北海道製油所など4企業・団体が従業員や関係者の新型コロナウイルス感染を公表。担当者は「地域に情報を出すことは、企業
「園名を公表する必要がある」―。苫小牧市元中野町のなかの保育園で3月15日、園児が新型コロナウイルスに感染していることが判明し、市と同園は協議して園名の公表に踏み切った。当時0~5歳児104人が在籍し、不安払拭(ふっしょく)と感染拡大の防止が急務だった。臨時休園や消毒作業など迅速な対応が求められる
「居住地情報の公表が市民への注意喚起など感染予防につながる」「個人情報は漏れないよう配慮します」「デメリットとして個人が特定される可能性があります」―。 苫小牧市内で新型コロナウイルスの感染が確認された場合、苫小牧保健所は患者に陽性判明を伝えるのに併せ、居住地情報を公表するか否かの意向を確
今月上旬、台風4号から変わった温帯低気圧と前線が近づく影響で、大荒れとなった道内。この苫小牧でも強風が吹き荒れ、ウトナイ湖の観察路では木が倒れ無数の葉が散乱しました。これほどの悪天候は、自然界に生きる野生動物たちにとっても脅威そのもの。ウトナイ湖野生鳥獣保護センターには、このように天候が関連してい
「胆振管内在住と言われているが、苫小牧市内で感染が確認された」―。2月22日午後6時から苫小牧市役所で開かれた記者会見で、岩倉博文市長はそう切り出した。市内で新型コロナウイルスの感染が初めて判明した瞬間だった。 これに先立ち、道が胆振管内で初の感染者が出たことを公表していたが、自治体名を明
住 所…苫小牧市春日町1の10の16 電 話…0144(33)0432 診療時間…月・火・木・金 午前9時~午後6時 (正午~午後2時は昼休み) 水・土 午前9時~正午。 日曜
「クラスター(感染者集団)になるかも」―。8月2日午前の苫小牧市役所一室。日曜日にもかかわらず、緊張感に包まれていた。市内の企業・団体による新型コロナウイルス感染事例の相次ぐ公表を受け、市は対策本部会議を急きょ開いた。岩倉博文市長や2人の副市長、全部署の幹部が集まって対応を協議。感染者の居住地名は
「静かになった。寂しいけど仕方がないね」。ライダーハウス・モーラップ樽前荘の管理人、吉川英二さん(69)はつぶやいた。例年であれば全国からライダーが集い、施設内もにぎわう夏の行楽シーズン。今年は新型コロナウイルス流行で宿泊者を限定して対応している。本道入りをためらう常連もおり、宿泊客は例年と比べて
イランカラプテ(こんにちは)。白老町末広のしらおいイオル事務所チキサニでは、毎年8月下旬、町内のフシコベツ川とポロト地区で栽培したガマとフトイの採取を行っています。アイヌ語でガマはシキナ、フトイはカトゥンキと呼ばれます。共に、アイヌ民族の伝統的なござ編みの材料として無くてはならない植物です。
苫小牧市柏原の自動車部品製造、アイシン北海道の社長に5月29日付で就任。新型コロナウイルス感染拡大を踏まえ、あいさつ回りもできずにいたが「アイシングループとしてコロナ対策を徹底してきた」と理解を求める。 金型作りのエンジニアが出発点で、工期を5分の1に短縮してトヨタ技術開発賞を受賞したこと
さまざまな団体で献身的な活動に取り組んできた菅原裕子さん(78)。認知症患者やその家族などを支援する「苫小牧市介護者を支える会」では2008年から会長を務める。「介護に対する悩みや苦労を抱える人の心が、少しでも和らぐように」と親身になって話を聞き、アドバイスもしてきた。「相談者が『話してよかった』
皆さんこんにちは。むかわ町ではこの時期、むかわアイヌ協会と鵡川アイヌ文化伝承保存会による、カムイノミが開催されます。宮戸の鵡川大漁地蔵尊境内にあるアイヌ碑の前で厳かにイナウ(木幣)を祭り、アペフチカムイ(老婆の姿をした火の神様)が見守る中、アイヌを守護する自然界の神々にイナウを通じてお酒をささげ、
苫小牧市内の町内会や老人クラブによる高齢者の見守り活動が、新型コロナウイルス流行の影響を受けている。市内各地で定期的に開かれてきた「ふれあいサロン」の多くは密集を避けるため休止し、高齢者宅を訪問する安否確認活動も自粛傾向だ。関係者はコロナの感染リスクを軽減させながら、高齢者が孤立しないような地域活
「孫に会えない夏を迎えるのは人生で初めて」―。苫小牧市双葉町の青木憲隆さん(77)は、嫁いで横浜市に住んでいる次女の真希さん(47)と孫娘の花菜ちゃん(13)、葉月ちゃん(10)姉妹が訪ねてくるのが夏の大きな楽しみだった。今年は帰省がかなわず「新型コロナウイルスがなければ、孫と港まつりや(東京五輪
通称”赤紙”と呼ばれていた薄紅色の召集令状が手元に届いたのは、終戦4カ月前の1945(昭和20)年4月22日、村上さんが21歳の時だ。 愛媛県大洲市に生まれ、9歳の時に家族が現在のむかわ町穂別に農家として入植。村上さんはそのまま愛媛に残り、尋常小学校を卒業後は歯科医
新型コロナウイルスの収束が見通せない6月22日、北海道観光振興機構の会長職に就いた。「コロナとの闘いは長い道のりになる。コロナ危機による社会意識の変化を、北海道の魅力を高めていく契機にする必要がある」と会員に訴えた。 全国的に再び感染が拡大し、観光産業の苦境は続いている。それでも「コロナ禍
「焼き物は、俺が死んでもどこかで残る」と、自作の花瓶を見詰めながら力を込める。陶芸を習い始めたのは47歳。苫小牧市内で塗装工の会社を経営する傍ら趣味で始め、今では陶芸教室「楽遊窯」を自宅敷地内で運営する。「塗装は周期で塗り変えられてしまうから、大工のようにずっと形に残る物作りに憧れがあった」と振り
アイヌ民族の世界では、人が死を迎えると肉体から霊が抜け出し、自分のコタン(集落)近くの洞窟を通ってあの世へ行くと考えられていた。白老町のアヨロ海岸に伝承の岩穴「アフンルパロ」(あの世への入り口)がある。この世の人生を全うしたり、少し悔いを残したりと、亡くなった人々の霊はいろんな思いを抱きながら、こ
1929(昭和4)年3月1日、王子製紙苫小牧工場のボイラー技師として働く父と優しい母の下、4人姉妹の三女として生まれた。太平洋戦争があった41年から45年は多感な少女時代。戦時下の援農体験や軍用機の整備修理工場があった千歳の第41海軍航空廠(しょう)で勤労奉仕をした当時の記憶がよみがえり、「私はあ
天然ガス、原油を商業生産する苫小牧市沼ノ端の北海道事業所の所長に6月25日付で着任。ほぼ同時期、追加開発した勇払ガス田で原油の商業生産を始め、「事業の継続、発展が大きな任務」と気持ちを新たにする。 入社初年度の1988年、「南勇払SK―1試掘場」に掘削作業員として勤務。苫小牧初の油ガス田だ
季節は8月に入り、盛夏を迎えています。支笏湖を訪れる人も増え、園地内も少しずつにぎやかさを取り戻しています。 先日、8月10日は「山の日」でした。山の日は2014年に制定され、16年に始まった国民の休日で、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日」とされています。 支笏湖の周辺
「人間を人とは思っておらず『弱いやつは死んでもいい』という考えがあの頃にはあった」。海軍特攻隊の一員として過ごした1年弱を思い出しながら語った。 敵の航空母艦への突撃に備え、練習機の操縦桿(かん)を握ったこともあったが、幸い戦地に赴くことは無いまま終戦を迎えた。除隊後は「人を大切にしたい」
捨てられた子どもたちのことを鮮明に覚えている。終戦当時は3歳。「母親はよく私を捨てないでくれた。感謝している」。樺太からの引き揚げは壮絶だった。 1941(昭和16)年8月、樺太の港町、恵須取(えすとる)町(現ウグレゴルスク)に6人きょうだいの末っ子として生まれた。父は荷揚げが仕事で、母は
現代において、ロボットは人間の生活の場にも登場しつつある。実用的なロボットやペットのように愛玩するためのそれとは異なる、人間社会に自然に溶け込むようなロボットの実現はいかにして可能だろうか。ロボットが単に業務を遂行するだけではなく、人間社会に参加した際には、どのようなコミュニケーション能力が必要と