1 厚真神社 ~被災地を歩いて~ 本当の復興はこの先に 多方面から資金集め再建
- 2021年8月14日
2018年9月に発生した胆振東部地震から間もなく3年を迎える。未曽有の自然災害に遭ったあの場所は―。そしてまちに根を張る人たちの思いは―。厚真、安平、むかわの被災3町の今をリポートする。 × × 「地元で被災された町民のご寄付、お見舞いもあったし、いろんな
2018年9月に発生した胆振東部地震から間もなく3年を迎える。未曽有の自然災害に遭ったあの場所は―。そしてまちに根を張る人たちの思いは―。厚真、安平、むかわの被災3町の今をリポートする。 × × 「地元で被災された町民のご寄付、お見舞いもあったし、いろんな
2018年7月に苫小牧市教育委員会のALT(外国語指導助手)となって3年目。日本に興味を持ったきっかけは「テレビ番組の『料理の鉄人』とアニメのポケモンを見て」という。 苫小牧の印象は「静かでリラックスできる街。人々が友好的で、みんなスポーツを愛している」と話す。海鮮丼とホッキカレーを好み、
「明るいものに都合の悪いものを溶かし込んで、私たちの心を何か巨大な力で誘導してはいないか」 高橋善雄さん(89)=苫小牧市大成町=は、兄を戦争で亡くし、軍事教練や援農に明け暮れた日々を静かに振り返った。今月8日まで、17日間にわたって繰り広げられた平和の祭典・東京五輪。その進め方に、あの頃
例年になく暑い日が続いた支笏湖畔。私の職場、支笏湖ビジターセンターの中も蒸し暑く、マスクの下の顔と首元にあせもができてしまいました。暑さで参ってしまって「湖で涼みたい!」と毎日思って勤務していました。我慢の限界が来たある日の仕事帰り、支笏湖温泉園地の端にある親水広場に涼みに行くことに決めました。
「今にも降参だと手を挙げそうな日本に対して、原子爆弾を試しに使った。こんなことが許せますか」。それまで穏やかだった表情が一変。渡辺清一さん(86)=苫小牧市柳町=は、怒りに満ちた力強い口調で語った。 10歳の時、爆心地から3キロ離れた長崎市内の自宅で被爆した。幸い、やけどなど大きな外傷はな
2019年8月に来日し、苫小牧市内の小中学校で指導している。 苫小牧の印象は「人々がとても友好的。温かく迎え入れてもらい、学校でも楽しんで英語を教えている」と語る。着任して間もなく新型コロナウイルスが流行してステイホームが求められたため、まだあまり街の中を歩いていないという。 理想
日本で唯一、地上戦が繰り広げられた沖縄。中でも浦添市前田地区は米軍による攻撃が集中し、「ありったけの地獄を一つにまとめたよう」と表現されるほどの凄惨(せいさん)な戦いとなった。 丹治秀一さん(98)=苫小牧市植苗=が所属していた陸軍満州803部隊もこの戦いに投入され、多くの仲間が戦死した。
7月10日、安平町早来地区にあるすずらんの丘で開かれた「遊育(ゆういく)事業」のイベント。会場は小中一貫義務教育学校の建設予定地になっている現早来小学校のそば。町教育委員会と町内の若者の有志が連携して開いた。「(丘に)どんなものがあるといい?」「どんな使い方ができる?」といった質問に、集まった幅広
2011年、カナダ発祥の氷上スポーツ・ブルームボールの指導者として、苫小牧市ときわスケートセンターに着任した。15年からALT(外国語指導助手)として、市内の小中学校を巡り、指導をしている。 苫小牧について「母国のカナダとすごく似ている」と強調。「アイスホッケーが盛んなところや、天候、人々
沼ノ端地区の人口増加に伴い、沼ノ端町内会から中央、南、北栄の三つに分かれて設立された。 「地域の歴史と伝統を守り育てる町内会」として、20年に1度、沼ノ端の沿革史の発刊を続けている。記念事業実行委員長として故・星野邦夫氏が指揮を執り、19年には「沿革史120年の歩み」を完成させた。長らく町
9歳だった夏の朝。祖母宅の縁側に座って休んでいると、遠くに南へ進む飛行機が見えた。「ピカッ」と激しく光ったかと思うと、家ごと大きく揺れた。地震だと思った。揺れが収まり、ふと空を見上げると南の空に見たこともないきのこ雲が立ち上っていた。原子爆弾が広島の市街地に落ちたと知ったのは、それからかなり後にな
7月27日夜、安平町の遠浅小学校で開かれた早来地区における学校統合に関する説明会。同地区に2023年度、小中一貫義務教育学校を開校させるに当たり、町教育委員会が遠浅小などの閉校を打ち出したことで、児童の保護者や住民が集まった。1人の保護者が勇気を振り絞り、悲痛な思いを訴える。「自然に子どもの数が減
今春、愛知県の大学を卒業して道南バスに入り、苫小牧市内を走る路線バスを運転しています。先輩運転手が同乗する研修期間が7月下旬に終わり、改めて責任の重さを感じています。 名古屋市で生まれ育ち、1人暮らしは初めて。小学生の頃からバス好きでどうしても乗りたいバスがあり、北海道まで来ました。一人で
日本の敗色が濃くなった、第2次世界大戦末期。日本軍は兵士が乗った魚雷を敵艦にぶつける特攻作戦に打って出た。人間魚雷とも呼ばれたこの特攻兵器で、140人を超える若い命が海に散った。 「命令が下れば、何もためらわずに自分も命を投げ出していただろう」。人間魚雷「回天」が配備されていた宮崎県日向市
Q「この夏、家の周りでコガネムシをよく目にします。大量発生しているのですか」 A よく目にするコガネムシにはスジコガネ、オオスジコガネ、ヒメコガネなどがいます。これらのコガネムシは街灯によく集まり、室内にも飛び込んできます。しかし、30年ほど前にはよく見られたシロスジコガネやドウガネブイブ
7月16日、安平町役場総合庁舎で開かれた記者会見。2018年9月に発生した胆振東部地震で使えなくなり、再建する早来中学校の校舎のイメージ案が示された。震災から2年と10カ月余りがたっても、生徒たちは仮設校舎で学んでいる。新たな学校への関心は高く、校舎やICT(情報通信技術)環境を設計した企業や教育
ギディオンさんは2015年8月に来日した。苫小牧市でALT(外国語指導助手)を務めるようになって6回目の夏を迎えた。 苫小牧について「これまで住んだ場所で一番栄えていて、一番寒い」と印象を語る。母国ニュージーランドで住んでいた地域には雪が降らなかったという。 やってみたいのは、英語
大漁旗をたなびかせた真新しい漁船の写真が宝物という。長男の政徳さん(45)が4年前、初めて手に入れた新造船だ。船名は、自分が乗っていた船と同じ「第一一八錦洋丸」。跡継ぎとして頑張る息子を誇らしく思う。 戦争が終わって2年後の1947年、白老村(現白老町)で漁業を営む家に生まれた。中学校を卒
2018年に来日して以来、約3年にわたりALT(外国語指導助手)として苫小牧市内の小中学校を巡っている。 苫小牧については「気候が好き」と笑顔を見せる。「まちの規模も大き過ぎず、小さ過ぎずで、住みやすい」と話し、カフェやレストランといった飲食店が充実していることを気に入っている。
2016年に来日し、20年7月までの4年間、十勝管内清水町でALT(外国語指導助手)として勤めた。苫小牧市へは同年8月に転入し、小中学校3校の指導を担当している。 子どもたちについて「とても積極的」と印象を話すように、「マライア先生!」と遠くから元気よく呼ぶ子が周りにたくさんいる。それだけ
1998年に来日後、新潟県でのALT(外国語指導助手)勤務を経て2004年に十勝管内新得町へ赴任。07年に来苫して以来、市内の全小中学校で指導してきた。 14年間暮らす苫小牧については「人々がみんな親切で、公園も多く暮らしやすい街」と大絶賛。苫小牧の自然をこよなく愛し、樽前山でハイキングを
2日から啓北橋の長寿命化対策工事が始まり、啓北町は変化の時を迎えている。 4月に就任した坂東好美会長は「町民の安心安全が第一」と語り、防災・防犯活動に力を注ぐ。啓北町総合福祉会館に防犯カメラを1台設置し、犯罪抑止に役立てている。 新型コロナウイルス禍で町内会活動が軒並み中止になった
和装の着付師です。2012年8月に手芸サークル「ルレット」を立ち上げ、苫小牧市双葉町のサロン「ハマ遊の友」は運営を始めて9年目になります。コロナ禍で思うように活動できませんが、今年は4月に文学講座を開くことができました。夏や秋には、歴史や暮らしを考える催しを考えています。若い人に日本文化の素晴らし
民族衣装をまとった祭司がいろりの火の神に祈りをささげる。祭具のイナウ(木幣)を並べた所に酒や食べ物を供え、フチ(高齢の女性)らが丁重に祖先の霊を慰める。7月10日、白老アイヌ協会が白老町虎杖浜のポンアヨロ川の河口で、恒例のシンヌラッパ(先祖供養)を行った。 儀礼の場の辺りには「アフンルパロ
▽1973年4月設立 ▽加入世帯数1033世帯(6月末現在) 加入率約80% ▽松尾省勝会長 全国的な町内会役員の高齢化や担い手不足が深刻化する中、少しでも歯止めをかけようと、2015年5月にフィールドサポーター制度を発足させた。同制度は、誰もが安心して暮らせる
7月17日、民族共生象徴空間(ウポポイ)で開かれた開業1周年記念セレモニー。関係者約200人が集まった会場で、政府のアイヌ政策推進本部長を務める加藤勝信官房長官らがアイヌ文化復興の取り組みに一層力を入れる姿勢を示した。 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2度の延期を経て昨年7月12日に開
Q…休みなので、子どもと一緒にミヤマクワガタを捕りに行く約束をしました。ミヤマクワガタはどんな木にいますか? A…ミヤマクワガタは国内に生息するクワガタの中で最も大きな種類で、雄の中には体長が7センチ(大顎を含む)を超えるものもいます。雄は立派な大顎を持っていて
白老町社台に「ミナパチセ」という名の小さなカフェがある。ドアを開けると、切り伏せ刺しゅうのアイヌ文様を施した木綿の着物が目に止まった。店主の田村直美さん(50)は、このカフェを拠点にアイヌ文化を発信している。 最近、来店客からアイヌ民族について知りたいという声をよく聞くようになった。「白老
苫小牧市の王子総合病院で看護師として勤め、3年目になります。主に消化器系の手術を控える患者さんが入院する病棟で、状態観察や心のケアを行っています。手術を控える患者さんは、不安を抱えていると思うので、寄り添い、笑顔で接することで少しでも安心してもらえるよう心掛けています。 看護師は患者さんと
いつか私は、アイヌとして胸を張って生きていけるのだろうか―。20代の女性は、国が白老町に開設した民族共生象徴空間(ウポポイ)がテレビや新聞で話題に上るたび、誰かにそう問い掛けたくなるという。 先住民族の尊厳を尊重し、差別の無い多様で豊かな文化を持つ社会の実現―を目指すアイヌ政策の象徴とした