看板店経営・元ネットワーク地球村代表 紺谷 博樹さん(63) 人をつなげる役割果たしたい はまなす国体で広告塔製作「看板屋の誇り」
- 2025年1月11日
市政に「市民の生の声が届いていない」との現状に奮起し、昨年12月の苫小牧市長選挙への挑戦を考えた。しかし、組織づくりが進まず、準備不足もあって出馬を断念。今後は「人をつなげる活動に取り組みたい」と話し、できる範囲で地域社会に貢献しようと考えている。 子どもの頃は「何に対しても一直線だった」
市政に「市民の生の声が届いていない」との現状に奮起し、昨年12月の苫小牧市長選挙への挑戦を考えた。しかし、組織づくりが進まず、準備不足もあって出馬を断念。今後は「人をつなげる活動に取り組みたい」と話し、できる範囲で地域社会に貢献しようと考えている。 子どもの頃は「何に対しても一直線だった」
今年6月、苫小牧市表町に「手技スクール&リンパケアサロン シャローム」を開業した。市内でエステサロンを営んで20年以上、「自分が確立した技術を継承したい」との思いを強くし、念願をかなえてのスクール開校だ。 苫小牧の高校卒業後、苫小牧フェリーターミナルの運営会社に就職。「(運送業の)お客さん
かつての高校球児たちが、世代を超えたOB戦を阪神甲子園球場を舞台に繰り広げる「マスターズ甲子園」を、この地に根付かせる先駆的な役割を担った。自らが発起人となって立ち上げた道央支部は、今年で10周年を迎えた。 戦後の1950(昭和25)年に厚真村(現厚真町)で出生。地元の小中学校を経て進学し
精力的で好奇心が強く、さまざまなことに挑戦し続ける小松孝男さん。足裏マッサージのように、手に存在する体の部位と相応するツボを刺激したり、手指をもみほぐす「指ヨガ」のセラピストとして活動する傍ら、地域おこしの活動にも参加。「新しい出会いから生まれる発見は宝物。横に広くつながり、必要に応じて協力し合い
泉谷しげるの「春夏秋冬」、井上陽水の「神無月にかこまれて」―など好きなフォークソング3曲を苫小牧市文化交流センターの多目的ホールのステージから、ギターの弾き語りで披露した。9月、地元のミュージシャン・シャイポール久保田さん(63)が主催した音楽イベントに出演した際の一幕。この中で陽水の「東へ西へ」
人生の大きな転機を50歳で迎えた。損害保険会社に勤めていたが、突き動かされるような気持ちのままに退職。キリスト教を学び伝える道に進んだ。牧師となり8年を迎えようとしている今、新型コロナ禍や物価高騰、人間関係の希薄化といった社会情勢の中、自分は地域のために何ができるかを模索し続けている。「信仰や宗派
当選回数12回。44年6カ月にわたる町議人生は、白老町議会で史上最長を誇る。長らく町議会の重鎮として特に財政問題などに鋭いメスを入れてきた。左派政党に所属しながらバランス感覚にも優れ、与党系議員からも一目置かれた。議員の職から離れた今、自身の半生を振り返る。 芦別市の中心市街地から南に10
とまこまい広域農業協同組合(JAとまこまい広域)の最年長組合員として、厚真で長年農業に従事し、今年もハスカップの生産やコメの収穫に汗を流す。山林を所有し、苫小牧広域森林組合の総代も務める。森林整備やボランティア活動にも積極的に取り組み、日々元気に暮らし、人生を楽しんでいる。 1926(大正
苫小牧市住吉町の市営住宅で1人暮らしの高齢者の部屋を訪れる「見回り活動」や、切り絵教室を開いている。活動を始めて15年以上たつが、休むことなく地域の見守りに尽力してきた。 戦中の1940年3月、豊浦町で6人きょうだいの次男として産声を上げた。その後、十勝管内の本別町に移り住み、終戦を迎える
自らを”パン君”と名乗り、ぱん工房を営む傍ら苫小牧のラジオ局「FMとまこまい」で市民パーソナリティーの顔も持つ。「人を介して町を活性化させたい」との強い思いがある。たくさんの人に救われた人生だから、この町で同じ思いを抱く仲間と電波や絆でつながる。 「FMとまこまい」
苫小牧で生花店の4兄弟長男として生まれた。子どもの頃から帰宅後は家業を手伝い、「将来は花屋になるのかな」と意識していた。高校卒業後は札幌市の北海道綜合美術専門学校(現北海道芸術デザイン専門学校)に進学し、建築を学んだ。ここを選んだ理由も「建物から花を見ることができるようになれば」という思いからだ。
厚真の地で2005年10月、自らの雅号で習字教室を開設して来年10月で節目の20周年を迎える。インターネットが普及した現代において、「筆文字ができるのは特別なことなんだよ」と町内から通ってくる子どもから一般まで50人ほどいる幅広い世代に、古くからの日本文化を伝えている。「20年もやってきたんだな」
2008年4月20日に、ネパールから来た青年は新千歳空港に降り立ち、初めて日本の地に足をつけた。ネパールとは環境も言葉も全く違う異国での仕事。不安もあったが、空港で次の行き先が分からず困っていた自分に、折りたたみ式の携帯電話を貸してくれた日本人の優しさに「この国でも暮らせるな」と直感した。それから
1972年に王子製紙へ入社し、アイスホッケーのFW選手として89年の引退まで17シーズン、日本選手権を11度制し、84年には前人未踏の200得点、通算歴代最多(当時)の287得点を挙げるなど、チームの中核選手として活躍した。現在は、苫小牧市スポーツ協会専務理事として、地域におけるスポーツ全体の発展
5月5日、サクラが舞う苫小牧市清水町の緑ケ丘公園金太郎の池で開催されたまつりのステージでマイクを握った。約2カ月半前に東京の音楽レーベル「エレックレコード」からインターネット配信デビューを飾った自身のオリジナル曲「生きる力~Just Live the way」を歌うためだ。中学時代に初めて同級生と
中学校を卒業し、15歳で家大工の棟梁(とうりょう)に弟子入り。以降約70年間、家づくりに携わってきた。経営を支えてくれる地域への感謝を込め、さまざまな奉仕活動にも注力。「元は縁のなかった苫小牧で今日まで仕事を続けることができ、とてもありがたい」と話す。 雨竜郡多度志村(現・空知管内深川市多
9期36年にわたり道議会議員、2003年5月から05年6月まで議長として、共生社会実現と民族共生象徴空間(ウポポイ)開業などに尽力した。戦争の傷跡から始まる幼少期、政治家を志した少年期。神部典臣さんは「昔のことはあまり語ってこなかった」と振り返る。 1939年、映画制作会社の松竹でスチルカ
長年、日本国有鉄道(国鉄)やJR北海道の機関士として、道内各地で列車を運行し、乗客の移動や貨物の安全輸送を支えてきた。蒸気機関車(SL)の「SLニセコ号」の運転にも携わり、退職後は追分SL保存協力会に加入。現在は会長としてミニSLの運転や道の駅あびらD51(デゴイチ)ステーションでSLの屋外展示を
苫小牧市樽前を拠点に活動する金属工芸家で彫刻家の藤沢レオさん(49)。市内でアート展を催す傍ら、母校でもある樽前小学校の行事にも長年参加し続けている。 1974年に洞爺湖町で産声を上げた。苫小牧には77年の3歳時に、父親の転勤で樽前に引っ越し、幼少期を過ごす。 樽前小学校時代は、と
高校を卒業した1969年、お酒を扱う卸会社(当時の北酒連)に入社。この頃は冠婚葬祭に必ず酒類が提供される時代で、「食べることには困らないだろうと考えてのことだった。仕事はきつかったけれども楽しかった」と振り返る。 全道各地に支店があることから、定期的な転勤も多く、地域密着型の同業他社との競
亡き母の遺志を受け継いで、開業して50年を超える昔ながらの焼き肉店を営む。「商売って水物で、どんと構えた時にお客さんが誰も来なかったり、いきなりドッと来る時もある」としみじみ語る。「ちょっと古くさくても、老若男女問わずに足を運んでくれる。とにかくお客さんの笑顔が見たい」とサービス精神旺盛に試行錯誤
苫小牧ですしを握り44年。常連客から「苫小牧のすし屋といえば『魚徳』」と言われるほど、市内外から多くの人が魚徳のすしを味わいに来る。「お客さんに助けてもらって店を続けられた。お客さんがお客さんを連れてきてくれてね」。古希を過ぎてもカウンターにたち、真剣なまなざしで腕を振るう。 山あいの日高
2010年9月。苫小牧市内で開かれた第47回全道老人クラブ大会に市老人クラブ連合会(市老連)の副会長として携わった記憶は今も忘れられない。市の65歳以上の高齢化率は現在30%を超えるが、当時はまだ20%ほど。若いまちと評価されていた苫小牧に、全道各地から2日間で延べ2900人も集まる盛況ぶりだった
新国際空手道連盟芦原会館苫小牧支部の立ち上げメンバーの1人として38年間、空手を続けてきた。「空手は生涯武道として他者と競うのではなく、自分を高めるもの。同じ練習場の中に強さを求める人、護身のために空手を習う人など、さまざまな目的を持った人たちがいるので、それぞれが上達していくような環境を今後も整
自動車エンジンを製造する企業で働く傍ら、「読み聞かせよっちゃん」として地域のさまざまな場所に出向いて絵本を読んでいる。活動を始めてもうすぐ3年がたつ。数えきれないほどの人と出会い、語らい、心を通わせてきた中で実感してきたのは、人と人がつながり合い、思いやり合える地域の大切さだ。「小さくても、そこに
父親から銭湯を継いだのは44歳の時。最初は右も左も分からない状態だったが、先輩たちの助けを借りながら、地域の「インフラ」を守ってきた。還暦を越えた今もなお苫小牧浴場組合長として、町の発展を支え続けている。 高度経済成長期の真っただ中の1958年10月、広島村(現在の北広島市)で5人きょうだ
白老町議会議員を10期、議長を2度務め、昨年10月で議員生活に区切りを付けた松田謙吾さん(81)。高度成長で人口が増え続けていた1979年4月に初当選。未来への夢と希望にあふれた昭和時代が続くと思えた時代だった。平成以降は人口減少が続き、町財政も厳しさを増している。まちの成長と減衰を目の当たりにし
遊びを原点にして、自分や周囲が楽しめることをしようと、数々のアイデアを実現させてきた。苫小牧が道内発祥というカーリングや詩人の宮沢賢治が100年前に苫小牧を訪れたこと、明治時代に苫小牧で製造されていたマッチなどに着目。これらを広く発信しようと、体験会やウオーキング、アート展といった企画を展開してき
防災教育や多文化共生を目指すNPO法人エクスプローラー北海道の代表と苫小牧市拓勇東町内会の副会長も務める二刀流。時代や文化の変化に対応しながらまちづくりに貢献してきた。 1970年2月に横浜市で産声を上げ、5歳の時に秋田県に引っ越した。意欲的で何事にも興味を示す性格だったという。
厚真町観光協会が企画する一大イベントとして定着した「田んぼのオーナー事業」を生み出し、町の最大行事「あつま田舎まつり」では本祭会場の移転を実現させた。町商工会会長、町田舎まつり運営実行委員会、町まちづくり委員会のいずれも委員長など数々の肩書を持ち、厚真の経済活性化をけん引してきた。今の厚真の礎を築