アクアサービス代表 佐久間 良一さん(73) 「信用第一」仕事にまい進 自分を受け入れ、育んでくれた苫小牧に恩返しを
- 2023年12月2日
苫小牧ってどんな町なのだろうか―。よく、訪れた町や自分の地域の歴史や文化を調べる。あるガソリンスタンドの所長は「商売がすごくやりやすくていい町」と答えた。それはいい町なのだろうか、よく自問自答している。 朝鮮戦争が勃発した1950年、福島県郡山市に生まれた。朝鮮特需などにより、日本が高度経
苫小牧ってどんな町なのだろうか―。よく、訪れた町や自分の地域の歴史や文化を調べる。あるガソリンスタンドの所長は「商売がすごくやりやすくていい町」と答えた。それはいい町なのだろうか、よく自問自答している。 朝鮮戦争が勃発した1950年、福島県郡山市に生まれた。朝鮮特需などにより、日本が高度経
人生初の飛行機に乗り、北の大地にやって来た。苫小牧市へと向かうバスの車窓から見た木々に緑はまだなく、道路は雪解け水で泥だらけ。「これはえらいとこに来たな」。1972年、24歳の春のことだ。 生まれ育った兵庫県姫路市内の工業高校を卒業し、「一緒に受けよう」と友人の誘いがきっかけで出光興産に入
苫小牧アイスホッケー連盟のレフェリー委員長、レフェリースーパーバイザーとして、試合中の動き方や反則の判断など、氷上に立ちながら後輩の育成、指導にも尽力する。「他競技とは違い、運動量が多くアスリートの要素が強いので、スポーツをしているのと同様の感覚。経験を積めば世界選手権、五輪など大きな大会に携わる
苫小牧市でも記録的な暑さとなった今年8月下旬。市内川沿町の泉野小学校グラウンドに子どもや大人たちが運動競技に挑み、たくさんの歓声が響いた。会長を務める川沿町町内会恒例の運動会の光景だが、開催は4年ぶり。顔を合わせて多世代が親睦を深める大切さを十分に味わい、町内会の存在意義をかみ締めた。 三
踊りを始めて半世紀が過ぎた。夫の転勤で引っ越しを繰り返す中、行く先々で踊りを通して新しい仲間と出会ってきた。苫小牧では民踊サークル「白寿会」に長く所属し、昨年は全国規模の研究集会で講師も経験。「こんなにしわが増える年齢まで踊り続けるとは夢にも思わなかった。これからも体が動くまで踊り続けたい」とほほ
書道の道に進んだのは30歳の時。「少しでもきれいな字を書きたい」という気持ちで始めた。筆を執って半世紀以上が過ぎた今でも苫小牧市内の四つの書道サークルでつくる鶴心書道会の代表を務め、公募展に応募するなど精力的に活動している。 太平洋戦争が始まる前年の1940年1月に函館市で産声を上げた。小
中学時代に始めたソフトテニスへの情熱は尽きず、競技に携わり続けている。76歳になった今も苫小牧ソフトテニス連盟副会長として競技の普及や選手の育成など幅広く活動し「多くの子が競技を楽しみ、成長していけるように―できることを続けたい」と思いを語る。 太平洋戦争の終戦を迎えて間もない1947年、
子どもの時から夢だった看護師として働き、町内では婦人活動団体で地域の子どもたちの交通安全などに尽力してきた。40代で学び直し、高校卒業資格を習得。傘寿を前に、趣味のそば打ちで上位の資格取得を目指す。「いつまでも輝ける人生であるために興味があったら果敢にアタックしていきたい」と振り返る。 終
総務大臣から行政相談に関する業務の委嘱を受けた行政相談委員として、30年以上、住民の相談や苦情を聞き、行政や民間企業へ働き掛け、課題の解決に当たっている。多くの人と出会い、自分でできることを無理せず、そばにいる人たちに手を差し伸べることを心掛けてきた。 1947年10月、穂別町(現・むかわ
7月16日、夜の10時はとうに回っていたと思う。私は紅海に面するサウジアラビア第2の都市ジェッダのアルサラーム宮殿にいた。岸田文雄首相がサウジのムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)の首脳会談に38人もの財界人らを同行させることとなり、私たちは宮殿の大広間に一列に並びながら、両首脳の登場を今か
安平村から追分村、追分町、今の安平町追分地区と地域の住民サービスを支えてきた追分郵便局で20年以上局長を務めた。祖父の祖山さん、父の恒弘さんと3代にわたって明治から大正、昭和、平成と追分郵便局長に100年以上「真保」の名を刻んだ。”追分のまちに真保”の礎がそこにあり、自宅に
何かを言いたげにこちらに訴える猫、うれしそうにほほ笑む猫―。「目は口ほどに物を言う」を体現するかのように、猫たちの豊かな表情が目を引くNYANXI(ニャンクシィ)こと白山さんの絵。苫小牧市錦西町の北洋大学の食堂には、これまでに仕上げた引っかき絵(黒い紙を削ると下地の色が現れるスクラッチペーパーを用
14年間の横浜市勤務を経て久々に帰ってきた第二のふるさと苫小牧は、見違えるように変貌を遂げていた。閑散としていた母校駒大苫小牧高校(美園町)周辺に住宅が立ち並び、中心街は多くの市民でにぎわう。「活気にあふれていた」と懐古する。 両親は平取町で農家を営んでいた。7人きょうだいの6番目で「心配
苫小牧市青少年センター(現市科学センター)の開館と同時に市役所入りし、38年間小中学生向けの工作指導や展示品の製作に精を出した。2006年から2年間は同館の館長を経験。現在も日本宇宙少年団(YAC)苫小牧支部の副分団長として、子どもたちに工作の面白さを伝え続けている。 太平洋戦争の終戦から
人生を救ってくれた武道で、地元・苫小牧市に恩返しを―。空手を通じ青少年の健全育成に取り組みながら、NPO法人として社会貢献活動にも力を入れている。市元町の道場には格闘技の賞状だけでなく、防災・防犯活動への感謝状もずらりと並び、「これまで自分が夢を追いながら生きてきた証し」と胸を張る。 日本
「調味料の定着には時間がかかる。100年かけて苫小牧から魚醤(ぎょしょう)文化を北海道に根付かせたい」と語る。苫小牧工業高等専門学校在学中に、日本で初めてのものをつくることを夢見た。その心意気が苫小牧産ホッキを使った「北寄魚醤」の開発につながった。「苫小牧から、全国の食卓に届けたい」と展望す
苫小牧市内で長年、自転車店を営み、74歳の今は故障やパンクなどへの対応に絞り、出張修理の依頼も受けている。21歳で始めた当時は、市内に30店近く自転車店があったが、「今は10店にも満たないほどに減った」と時代の激しい変化を痛感している。 出身はリアス式海岸が広がる岩手県久慈市。5人きょうだ
誰もが最期まで自分らしく生きられる社会を追求し、30年以上が過ぎた。活動を始めた1990年代は、死について考えることをタブー視する人も多かった時代。それでも、尊厳のある死について一人ひとりが考え、個々の決定を支える地域づくりの必要性を信じ、ひたむきに歩み続けてきたことが、権利擁護に携わる現在に生か
絵画の門をたたいたのは「家に絵を飾りたい」との思いからだった。「絵は『絵描き同士の勝負』」と夢中になった時期もあり、抽象画や風景画など幅広いジャンルで道内や全国を股にかけて展示会を行ってきた。絵を描き始めて50年がたった今も、毎年個展を開き制作活動に励んでいる。 太平洋戦争の終戦から2年が
北海道軟式野球連盟苫小牧支部審判部の一員として20年、競技を支え続けてきた。現在も同部副部長として幅広い年代の試合に携わり「大好きな野球に関わり続けていられるのは財産です」。 日本でカラーテレビ放送が始まった1960年、室蘭市で生まれた。テレビ観戦で巨人の王貞治など当時のプロ選手へ憧れを抱
将来の夢だった画家になることを一時断念し、父の家業である林業を引き継ぐも定年退職を機に工芸の道を模索する人が白老にいる。記憶を頼りに図面を引き、独学でのみ、かんななどの工具を駆使して、若き日に汗を流した林業関連の重機を木工で再現し続けている。作品は精巧で、小さな金具も自作するほど入念な仕上がりに、
苫小牧市の樽前山神社で長く奉職し、地域の結婚式や事業所の地鎮祭などで人々の幸せや安全を祈念してきた。双葉町町内会の会長として地域活動にも尽力する。人と人とのつながりが希薄になる中、地域住民が互いに支え合うことを大事に考え、次世代を担う若者の育成にも携わる。 太平洋戦争終戦後の1945年10
厚真町に移住して37年、豊丘地区にある現在の家に住んで19年目の春を迎えた。自治会長を務める傍ら、教員経験を生かして子どもたちに勉強も教える。道の防災マスターや森林整備団体の代表など地域をフィールドに幅広い活動に励んでいる。「誰かに頼りにされることが、やりがいになっているのかな」とほほ笑む。
マンドリンとの出合いが人生を大きく変えた―。人前でうまく話せなかった少年期を乗り越えて、教育の道に進み、8月で教員人生49年。「マンドリン演奏を通じて、人の目を気にしない自信が付いた」と振り返る。 太平洋戦争の終結から5年後、朝鮮戦争が勃発した1950年に、炭鉱で栄えた空知の町で1男3女の
世界初の内陸掘り込み式港湾開港が間近に迫った1963年春、苫小牧の地をはじめて踏んだ。王子製紙苫小牧工場のお膝元。工場社員が暮らす長屋がずらっと立ち並び「釧路と似てるな」。懐かしさを覚えた。 父は釧路太平洋炭鉱の鉱員。社宅の風景は苫小牧とうり二つだった。少年時代に励んだスポーツはもっぱら野
「目指すのは、地域に根差し、信頼される郵便局」―。それをモットーに、これまで8カ所の郵便局を渡り歩きながら、住民との触れ合いを大切にしてきた。入局44年、局長になってから20年。郵便局にささげてきた人生の歩みを振り返り、「地域社会に役立っていると感じられる仕事に就けた自分は幸せ」と笑みを浮かべる。
新緑に包まれた北大苫小牧研究林、紅葉が映える支笏湖、厳寒の登別漁港、イタリアの美しいベネチアの街並み―。その土地土地で心が揺さぶられた風景をスケッチブックやカメラに残し、水彩画で表現する技を追求してきた。今年で米寿を迎える今も絵筆を握る。 日本が軍国主義へ突き進んだ昭和初期、渡島管内の尋常
家にお花が飾ってあったら、きれいだろうな―。そんな軽い気持ちで始めた生け花は、いつしか人生そのものとなった。華道を歩み続けて60年以上が過ぎた今、大切にしているのは次代を担う子どもたちへの伝承だ。「生け花の技術以上に、心を落ち着けて、自分の気持ちと静かに向き合う時間を持つことの大切さを伝えられれば
美術が持つ力を社会に役立てる臨床美術士として活動に励む。その傍らで高齢者の居宅介護支援などを行う会社の社長を務め、80歳を過ぎた今も第一線で活躍している。 第2次世界大戦が始まった激動の1939年に札幌市で生まれた。父親の仕事ですぐに樺太(現サハリン)の恵須取町(えすとる)へ移り住み、ソビ
小学生から始めた野球は、53歳になった今でも現役。北海道での社会人野球でもまれながらストイックに野球と向き合ってきた左腕。「もう一度、日本選手権の舞台に立ちたい」と社会人野球ビッグ大会のマウンドを見据える。 1969年、「ON砲」と呼ばれた王貞治氏と長嶋茂雄氏が日本プロ野球界で活躍した時代