安平町社会福祉協議会会長 真保 立至さん(83) 「追分に恩返ししたい」 3代にわたり郵便局長 一家で地域支える
- 2023年8月19日
安平村から追分村、追分町、今の安平町追分地区と地域の住民サービスを支えてきた追分郵便局で20年以上局長を務めた。祖父の祖山さん、父の恒弘さんと3代にわたって明治から大正、昭和、平成と追分郵便局長に100年以上「真保」の名を刻んだ。”追分のまちに真保”の礎がそこにあり、自宅に
安平村から追分村、追分町、今の安平町追分地区と地域の住民サービスを支えてきた追分郵便局で20年以上局長を務めた。祖父の祖山さん、父の恒弘さんと3代にわたって明治から大正、昭和、平成と追分郵便局長に100年以上「真保」の名を刻んだ。”追分のまちに真保”の礎がそこにあり、自宅に
青森県出身の成田亨(1929~2002)は、彫刻家と美術監督という二つの顔を持つ美術家であり、ウルトラシリーズの初期3部作のヒーローや怪獣、星人などのデザインを手掛けたことで知られている。「変形」や「合成」といった手法を用いながら意外性の高いフォルムを創出した成田のデザインは、動植物の図版をはじめ
苫小牧市の小劇場演劇集団「4丁目劇場」との出合いは、高校3年生の夏。代表GOROさん、副代表に阿部隆之さんがいた。鳥嶋清嗣朗さんが代表を務める劇団「群’73」の舞台で出会い、互いに小劇場のお芝居を苫小牧でやりたいと旗揚げをしたそうだ。鳥嶋さんがいなければこの2人は出会わず、自分も演劇と出合うことは
昭和29(1954)年というのは、どんな年だったのだろう。日米相互防衛援助協定、余剰農産物購入協定などMSA四協定締結、自衛隊発足と防衛力増強。東西冷戦の中、再生日本は米国の傘の下で経済力を高め、高度経済成長へと向かう。「金の卵」の中学卒業者を乗せた集団就職列車が初めて運行され、地方の若者たちが
終戦から10年を経た昭和30(1955)年。前年12月からわが国は、後に「日本の奇跡」といわれた高度経済成長期に入った。朝鮮戦争による特需景気で同28年後半ごろには戦前の経済水準に戻り、昭和30年度は、鉱工業生産をはじめとして実質国民所得、農業生産、消費水準など、貿易を除く各分野で戦前最高時を大
高度経済成長が始まって「もはや戦後ではない」と経済白書がうたい上げ、国連加盟がようやく認められて日本が国際社会に復帰したのが1956(昭和31)年のことである。政府は、アメリカの援助や特需に依存しない経済を樹立しようと「経済自立5カ年計画」をスタートさせた。北海道については「北海道総合開発計画第
「北海道の工業発展の基盤としての工業港の整備」という方向性が明らかになった苫小牧港だったが願うほどに建設は進まず、「この港造りは無駄ではないか」との声が上がったのが昭和32(1957)年のことであった。結果的にはそれを乗り越えて建設は進み、この年から苫小牧港建設と工場用地整備に関わる一連の工場立
昭和29(1954)年後期から始まった「神武景気」は、同32年7月に至って「鍋底不況」の時期に入る。過剰な設備投資や在庫の急増などによって、翌33年前半まで景気の冷え込みが続く。しかし、同年7月には国内消費が再び高まって「岩戸景気」のにぎわいを見せる。そんな景気の浮沈の中で、苫小牧では労働運動史
無期限ストが解除されたとはいえ、昭和34(1959)年が明けても王子争議の波乱は一向に収まらない。「労、労、使」の協議は行きつ戻りつし、この年春の市議選は、「会社」と「王子労組(第一組合)」「王子新労組(第二組合)」の候補が入り乱れて議席を争い、メーデーは分裂。その余波は小中学校PTAの役員選び
昭和35(1960)年といえば、岩戸景気(昭和33年7月~同36年12月)のど真ん中である。経済を飛躍的に成長させて完全雇用、生活水準の向上を目指す国の新長期経済計画が進む中で、「10年間で国民所得を2倍にしよう」という所得倍増論が打ち出されたのがこの年。工業基盤の構築と拡充が進み、苫小牧では港
「ゴーン、ゴーン」 終戦記念日の15日正午すぎ、苫小牧市ウトナイ南の真宗大谷派不退寺の境内に何度も重厚な鐘の音が鳴り響いた。 1945年8月15日、昭和天皇が詔書を読み上げる玉音(ぎょくおん)放送が流れた時間に合わせ、地域の家族連れや高齢者ら約50人が次々と撞木(しゅもく)で鐘を突
昭和36(1960)年。とにかく景気がいい。港の建設が進む苫小牧は特にそうで、3月末に苫小牧税務署がまとめた昭和35年の申告所得総額は約15億5700万円、前年比約35%増で36年もそのくらいの伸びが見込まれた。税額は45%の伸びだ。工業開発事業とその影響による土地売買などが要因で、その土地は高
2020年に発足したわが家の小さな環境グループ「地球お守りチーム」の活動も、早いもので4年目を迎えました。当時小学校4年生だった長男と、環境のために何かできないかと話していたことがきっかけで始まった、わが家のごみ拾い活動。年長だった長女がグループの名付け親となり、それから毎月、海岸などでごみ拾いを
昭和37(1962)年、苫小牧港の内陸掘り込みは進み、この年の暮れには日高本線が内陸に移設されて運行を開始。港口は広々と掘り込まれ、翌年4月の第1船入港に向けて準備が進む。街では、初めての近代的ビルである王子不動産ビルが、やはり翌年4月の完成を目指す。人口は増加に拍車が掛かり、この年から翌年、翌
昭和38(1963)年4月、苫小牧港に第1船が入港した。それは永年の夢の実現であると同時に、腹をくくって臨港工業地帯と街をつくらねばならぬという新たな時代の始まりでもあった。市街地では王子不動産ビルをはじめとする近代的ビルが建ち始め、景観が変わっていく。多くの人々の暮らしが潤う一方で、この年だけ
昭和39(1964)年は、前年に第1船を迎えた苫小牧港の整備と利用が進み、工業地帯に企業が張り付く中で、多くの新たな役所や庁舎、施設、建物ができ、街の様相が大きく変化した年であった。苫小牧は国の全国総合開発計画と新産業都市計画の中にはまり込みつつ、拡大を続ける。双葉町、音羽町、美園町など鉄北地区
港の整備が進んだ。有珠川(現在の苫小牧川)の河口近くに苫小牧灯台が完成し、苫小牧港管理組合が発足した。昭和40(1965)年という年は、東京五輪(昭和39年)後に景気が落ち込んだ、高度経済成長の息継ぎのような時期であった。それも11月には好況に転じ、戦後最長、57カ月間の「いざなぎ景気」に向かう
昭和41年といえば、わが国はなお高度経済成長のただ中にある。所得の増大で、消費生活が向上した。例えば苫小牧でも高級果物が売れ、バナナなどは価格の下落などもあって1年間で3倍以上の消費量になった。半面野菜は消費量が減少し、食糧難の時代に食膳を助けた大根などは、半分に減った(以上グラフ参照)。開発が
苫小牧港は、急激に発展した。第一船が入港(昭和38年4月)してからわずか4年で、貨物取扱量は年間600万トンにもなった。その多くが石炭ではあったが、商港区の整備の中で「商港」としての性格を強めつつあり、さらなる整備のために待望の20億円の予算が付いた。高度経済成長と港湾整備の進展によって、既存企
苫小牧のまちづくりの中で、この年ほど多くの施設が生まれ、あるいは姿を消したことはなかったに違いない。市民会館、西町下水処理場、婦人ホーム、学校給食センター、美園小学校などが完成し、糸井団地の造成や青少年センターの建設が始まり、市立総合病院は第二期工事を終えて竣工(しゅんこう)した。港の建設に予算
苫小牧市民活動センターで7月30日に行われた、戦争と平和をテーマにした市民団体主催の集会「平和のつどい」。中高年の市民らに交じり、苫小牧東中学校3年生の渋谷ゆうなさん(15)の姿があった。終戦後の満州・敦化(現中国吉林省)の日満パルプ製造敦化工場で起きた集団自決事件の生存者、池野京子さん(85)=
日本列島で人を模した遺物が登場するのは縄文時代草創期だが、範囲はごく一部に限られる。古い時代の土偶は顔がないか、顔面が表現されていないものが多く、顔面表現を忌避していたと考えられる。 北海道では縄文時代中期(約5000年前)から東北地方北部と北海道に広がった円筒式土器に伴って板状の土偶が広
厚真町の厚南デイケアセンターで開かれたパステルアート教室に、小中学生たちが集まった。子どもたちと高齢者の世代を超えた友達づくりを目指したワークショップで、僕もボランティアスタッフとして参加した。 夏休み中の子どもたちの表情には独特な輝きがある。こちらが聞くよりも早く「もう宿題終わったよ」と
苫小牧市美術博物館は9月3日まで、特別展「縄文と現代~共鳴する美のかたち」を開いている。開館10周年や同市と青森県八戸市が結んだ交流連携協定「はちとまネットワーク」5周年を記念した企画で、絵画から土器まで200点以上を展示。美術、考古の各担当学芸員が4回にわたって解説する。 ◇
「世界で戦争がなくならない中、私たちに何ができるのかを考え続けることを通し、平和のバトンをつないでいきたい」 苫小牧市の中学生広島派遣事業で7月、被爆証言者の豊永恵三郎さん(87)=広島市=の話を聴いた沼ノ端中学校3年生の海沼来伽(らいか)さん(14)は、市民会館で15日に行われた市主催の
太平洋戦争の終結から78年が経過した15日、各地で平和記念式典が行われ、平和への決意を新たにした。 記者になって約1年半、苫小牧に残る戦争遺構「トーチカ」や原爆投下前日の様子を描いた小説の朗読劇など、戦争に関する取材に携わってきた。 4日には市住吉町のコミュニティーサロン「ハマ遊の
看護師をしていると高齢の方と関わる機会が多い。なので、数年前までは、戦争体験をした患者さんからいろいろな話を聞いた。しかし、時代の流れとともに、近ごろは戦争を体験した人、中でも出征した人の話を聞くことはほとんど無い。 実際の体験者のお話は、教科書で習うものとは比べものにならないほどリアリテ
子どもの頃から、何か困り事に気付くと、解決策を考えていた。アイデアを形にし、喜んでもらえるのがうれしかった。 2年ほど前は足首の持病で使っていた「弾性ストッキング」を脱ぐときに苦労し、何か手がないかと考えた。靴べらを反対側に反らせるように加工した物を試作し、ストッキングと脚の間に入れ、てこ
わが国の高度経済成長は、昭和48(1973)年のオイルショックを節目に「安定成長(低成長)」へと移り変わった。それまでのような右肩上がりの経済は、もう考えられない。だが、高度成長の中で立案された国策である苫東開発計画は引き続き進められていく。この辺りのちぐはぐが、後のまちづくりと市行政の体質に少
中標津空港に着いた。羽田を出たときはまだ蒸し暑い9月の風が吹いていて、黒いTシャツが肌にペタリとくっついていたが、空港に降り立った瞬間、羽織るものを持ってこなかったことを悔やんだ。なかしべつ、って、こういう漢字を書くのだね、と言いながら迎えに来てくれた先輩の車の助手席に座った。 「急に来た