大切な居場所 磯崎(いそざき)文盛(ぶんせい)
- 2023年8月31日
二十歳前後の頃、アイヌ民族である萱野茂さんの著書「アイヌの碑」(朝日文庫)を初めて読み、その柔らかい文から温和で清らかなお人柄が伝わってきて、心が打たれたことを今でも覚えています。 当時、私はほぼ家に引きこもりのような状態で、世の中のいろんなものを空虚に感じていました。ぽっかり空いた心に、
二十歳前後の頃、アイヌ民族である萱野茂さんの著書「アイヌの碑」(朝日文庫)を初めて読み、その柔らかい文から温和で清らかなお人柄が伝わってきて、心が打たれたことを今でも覚えています。 当時、私はほぼ家に引きこもりのような状態で、世の中のいろんなものを空虚に感じていました。ぽっかり空いた心に、
敗戦とともにわが国が平和と民主主義を根幹とする新しい時代に踏み出したのは今から77年前、昭和20(1945)年8月のこと。私たちの郷土もまた新時代への出発点にあった。以来の歩みをたどれば、人々は飢えをしのぎ、教育を復興し、港を掘り、原野を工場用地とし、湿地を埋め立てて住宅地に変え、まちは多くの先
「カムイサウルス・ジャポニクス(通称むかわ竜)を軸に、恐竜を中心にした施設と考えている。実物を展示できるのは新しい博物館しかない」―。今月28日にむかわ町内で行われた集会。穂別地区で進める穂別博物館と周辺一帯、同地区市街地のまちなか再生を図る「復興拠点施設等整備事業」に関する意見交換の場で穂別博物
食糧不足、物資不足は昭和21(1946)年が明けていよいよ激化した。この年2月、政府は「食糧緊急措置令」を公布し、警察権をもって農家に食糧供出を強制し、「隠し米」を摘発した。食糧、物不足の中でインフレが進んだ。終戦から1年間で物価は4、5倍になった。人々は極度の困窮の中にあり、苫小牧ではデンプン
昭和22(1947)年が明けても、食糧不足とインフレはなおも進んだ。人々の困窮は続き、苫小牧駅のホームは買い出しの人々であふれた。しかし、その間にも敗戦後の占領政策の中で、国の形は大きく変わっていった。前年公布された日本国憲法が5月3日施行された。国の姿を将来に向けて決めるのは教育であった。憲法
新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが5類に引き下がり、苫小牧市民会館に音楽ライブが戻ってきた。当日には、公演するアイドルやロックバンドの関連商品を身に着けたファンの姿を会場周辺で見掛ける。 コロナ禍以前、ライブが目的の来苫者たちに、市内観光や地元店で飲食をするか聞いたことがある。多く
食糧難、住宅難、引き揚げ者の生活自立など多くの課題を抱えつつも、昭和23(1948)年は、苫小牧にとって大きな節目の年であった。この年4月1日、苫小牧は「町」から「市」ヘと変わり、人々は郷土の発展に希望を抱き、町を挙げてこれを祝った。10月にはもう一つ大きな喜びがあった。学校給食の始まりである。
昭和24(1949)年という年には、実に多くの出来事があった。年表を追うなら、1月の衆院議員総選挙で苫小牧港築港に尽力する篠田弘作氏(以下各氏敬称略)が初当選。4月には元町海岸のわずかな試験突堤が「港」として登録されて苫小牧港建設の口火となった。7月には支笏洞爺国立公園が誕生、8月には柏原に広島
終戦直後の食糧不足も昭和24(1949)年には幾分落ち着きを見せ始め、戦後の不景気は昭和25年夏に始まった朝鮮戦争による「特需」で活況に転ずる。市制施行から2年を経た苫小牧では、苫小牧港の試験工事実施、市立病院の新院舎完成、上水道工事着手、市営バス運行開始、地域紙「南北海」および「市政だより」創
太平洋戦争終戦後の10年ほどの間というのは、まちの将来に関わるあれこれの出来事が実に数多く見られる時期である。今回取り上げる昭和26(1951)年というのはとりわけそうで、第一に苫小牧港起工がこの年であり、まちの文化の中心となる市立図書館が開館したのもこの年である。前年営業を開始した市営バスの車
昭和25(1950)年から同28年に至る朝鮮戦争による特需は、敗戦後のインフレと不況にあえいでいた日本経済を好況に導いた。その後、特需の反動による一時的な不景気はあったものの、昭和29年末期から空前の好景気の時代、いわゆる「日本の奇跡」ともいわれた高度経済成長期に入る。昭和27年とその前後の年は
昭和28(1953)年は、戦後という時代の将来がわずかに見え隠れした初年だったかもしれない。前年、サンフランシスコ講和条約が成り、占領地日本に主権が戻った。それとともに、それまで何につけ泣き寝入りだった米軍基地や演習場接収の問題が表面化した。朝鮮戦争は終わったが、日本の軍事的重要性は高まり、講和
「震災と新型コロナウイルスの二つの『災害』を乗り越え、やっと日常が戻ってきた」―。6月24、25両日に厚真町の表町公園で開催された「あつま田舎まつり」で、事務局員として携わった町職員の森田綾さん(31)はほっとした表情を見せた。胆振東部地震が発生した2018年以来、田舎まつり音頭パレードが市街地に
苫小牧信用金庫では、地域の活性化や将来に向けた豊かな地域づくりに貢献するためには、地元の教育機関との連携協力が不可欠と考え、2005年から胆振管内の大学・高等専門学校と産学連携協定を締結してきました。これまでに研究への助成、企業からの技術相談の取り次ぎ、サテライト教室や市民公開講座などを実施してい
「町の人口が減少し、特に20~40代が少なくなった。単純に人口を増やす施策ではなく、教育や子育てを魅力化しようという話が以前からあった」。安平町政策推進課の木村誠課長補佐は、現在進めるまちづくり施策の背景について説明する。同町は教育を柱にしたまちづくりを掲げ、子育て世代をターゲットに移住定住施策を
昭和52(1977)年は苫東で明け、苫東で暮れた。北電の苫東厚真火力発電所が着工し、計画には一言もなかった石油備蓄基地建設が突然飛び出してゴリ押しされた。その間、大企業だけが寄り集まって会社をつくってもうけようというような計画まで出てきて紛糾した。市街地では駅前再開発ビル「サンプラザ」がオープンし
幼稚園の年少組に通っている時にサッカークラブに入り、それからずっとサッカーを頑張っています。 練習は週に4日間で大変な時もありますが、上手になったと思えたり、シュートを決めることができて気持ちが盛り上がったりした時は、とてもうれしくなります。 夏休み中は、札幌市で開かれた「バルサア
「皆さん、おはようございます。まずこの講義のゴールからお話しますね」 診察室とは違うあいさつを口にして、少しだけ緊張する。北洋大学での夏季集中講義の一コマだ。 今年度から客員教授を務める北洋大学での講義のテーマは、「メディア社会と心」。ネットの発達やスマホの普及で、10年前とは比べ
日本初の本格的な内陸掘り込み式人造港である苫小牧港(西港)は、北海道で産出した石炭を本州の工業地帯へと積み出す港として、1963(昭和38)年4月に開港した。同月24日には、室蘭港から回航した第三北星丸(3016トン)と東京港から直航した光輝丸(1998トン)の2隻が、港に整備された石炭岸壁に横付
白老町のまちの情報を発信する大切な紙媒体の広報「元気」を担当しているのは、竹浪恒一郎さんと補佐の藤田幸恵さん。地域おこし協力隊として、どうやって本の活動を広げていこう?と少し迷った時にはいつも、編集室へ伺います。 竹浪さんとは、昨年5月、協力隊の就任式で初めて会いました。「何かあったらいつ
「いざという時に、ゼロから始めるか、一から始めるかでは、大きく違う」―。今月7日、むかわ町役場に併設する産業会館で開いた会議で、竹中喜之町長が集まった研究機関の関係者、町職員らに向けて結束を呼び掛けた。むかわ町は海と山に囲まれ、何かと自然災害を受けやすく、「防災先導のまちづくり」を推進している。次
今滞在中のフィリピンは、この10年ほどで大きく変貌している。 首都のマニラだけでも何百という和食レストランがいたる地区、いたる通りでにぎわっている。かつて客の圧倒的大多数が日本人に限られていた。ところが今、大衆クラスの和食レストランだと、客層の7割から8割が、時に9割が現地の人たちのようだ
「なぜかこうして5年も続いた。振り返ると、よくやったなと思う」―。厚真町内で町民向けに体操教室を開講する本郷地区在住の高橋康夫さん(72)が笑みをこぼす。 暑さの厳しい今夏、厚真町総合福祉センターの和室に、地域の高齢者ら20人ほどが集まり、手や足を動かしながら体操を楽しむ光景が広がる。1時
2016年春、リレー・フォー・ライフ・ジャパン(RFLJ)とまこまい実行委員会の事務局長、下村達也さんが突然来社されました。こんなことを始めましたと、RFLJとまこまいの説明をしてくれました。がん患者さんやそのご家族を支援し、地域全体でがんと向き合い、征圧を目指すチャリティー活動とのことでした。
苫小牧市美術博物館第3展示室で9月3日まで、特集展示「〈はちとま〉の海にまつわる自然と歴史」が開かれている。苫小牧港―八戸港(青森県)間のフェリー航路開設50年、苫小牧港開港60周年を記念し、自然史と歴史の2部門に分け、計約40点を展示している。それぞれの担当学芸員が展示物を紹介する。
23日は厳しい暑さの峠を越す処暑。朝、夕には涼しい風が吹き、虫の声も聞こえてくる頃とされるが、今年の苫小牧はまだ暑い。今夏は、コロナ禍で人の姿がまばらになった市内でもさまざまな催事が再開され、各地に「4年ぶり」の活気が戻った。 7月の樽前山神社例大祭では、市内中心街を練り歩く「あばれ獅子」
3年ほど前、ある企業からイベントについて相談され、幾つか企画を提案したことがあります。その中に子どもたちにたくさんの経験をさせるものと、障害を持っている方が車椅子でも普通にワークショップを楽しめるものがありました。 前者は翌年、子どもたちに美容の体験をさせる「美とまkids」として苫小牧市
縄文土器は字の通り縄目文様が付けられる。それ以外にも貝殻や木の棒、魚骨、爪などさまざまな素材を用いて多種多様な文様がある。文様は時代、地域ごとに変わり、土器の移動や文様の伝達から人々の交流を見ることができる。広域で共通した文様が使われることもあれば、狭い地域だけで見られる文様もある。 多く
駒大苫小牧高校野球部で副主将を務めています。ポジションは捕手。扇の要として、守備でも攻撃でもチームを引っ張っていける存在になるため日々努力しています。 7月の南北海道大会に2年生ながら正捕手として出場しました。チームは2021年春から全道級大会で初戦負けが続いていたのでプレッシャーもあった
7月16日、夜の10時はとうに回っていたと思う。私は紅海に面するサウジアラビア第2の都市ジェッダのアルサラーム宮殿にいた。岸田文雄首相がサウジのムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)の首脳会談に38人もの財界人らを同行させることとなり、私たちは宮殿の大広間に一列に並びながら、両首脳の登場を今か