タクシーというのは行き先を伝えればたどり着いて当たり前。ほとんどの人がそう思うだろう。ところがアジアの大都市ではそうとはかぎらない。その一例をあげよう。
タイの首都、バンコクで観光客なら誰もが知っているカオサンというところに行こうとして流しのタクシーをつかまえた。
「カオサンロード、わかりますよね?」
若い運転手が前方を見つめたまま、無言でうなずいて走り出す。
4、5分も走っているうちにふと気がついたのだが、なんと目的地とはまるで反対の方向をめざしているではないか。
すぐに停車させ、英単語のみを並べる運転手に問いただしてみれば、こういうのだった。
「この車、今どこ走っている? 私、ちょっとわからない」
これが英語の通じるマレーシアやフィリピンのタクシーだとしても、事情はそんなに変わらないようだ。客を乗せたら、とりあえず走り出す。そりゃそうだろう、道がわからないなんていったら、せっかくつかまえた客をみすみす逃してしまうではないか。
だいたいの方角をめざして、目的地が近いなと思ったら、こう客に切り出すのだ。
「ダンナ、場所はわかっているのかね?」
わからないと答えると、運転手は黙ってハンドルを握りしめ、その近辺をグルグルと回り出す。こっちが辛抱たまらず――。
「誰でもいいからそこらへんにいる人に聞いてちょうだい」
そうお願いしても、なかなかいうことをきかない。事情通にいわせると、アジアではタクシー運転手を含めて都市部の住民の多くが地方出身者なので、住所を見せてもわかるはずがないんだとか。
さらにいえば、アジアの人々は根がやさしいので、冷たく「知らないよ」とはいえないらしい。で、道をきかれた人々が親切心から各自いい加減(かげん)な方角を指さすものだから、はなから運転手は質問する気にならないらしい。
ランドマークは見えているが、そこから徒歩で数分の目的地にタクシーでたどり着くのにさらに30分もかかったなんていう話はざらにある。
アジアの大都市では、目的地がよほど有名な場所でもないかぎり、時にタクシーはなかなかたどり着かないもの。
だが最近ではスマホの普及に伴い、無料の地図アプリを利用するタクシー運転手が増えている。おかげさまでさほど案ずる必要がなくなっているようだ。
★メモ 厚真町生まれ。苫小牧工業高等専門学校、慶應義塾大学卒。小説、随筆などで活躍中。「樹海旅団」など著書多数。「ナンミン・ロード」は映画化、「トウキョウ・バグ」は大藪春彦賞の最終候補。浅野温子主演の舞台「悪戦」では原作を書き、苫高専時代の同期生で脚本家・演出家の水谷龍二とコラボした。