海部首相、56年宣言の明記迫る 91年日ソ会談「歴史の事実認めよ」 ゴルバチョフ氏拒否・外交文書

海部首相、56年宣言の明記迫る
91年日ソ会談「歴史の事実認めよ」
ゴルバチョフ氏拒否・外交文書
 日ソ共同声明署名後、指切りをするソ連のゴルバチョフ大統領(左)と海部俊樹首相=1991年4月18日、東京・元赤坂の迎賓館

 外務省は21日、1991年ごろの外交文書ファイル19冊を公開した。同年の日ソ首脳会談と共同声明に関する記録も含まれ、海部俊樹首相が平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しを明記した56年の日ソ共同宣言を共同声明に盛り込むよう何度も迫ったのに対し、ゴルバチョフ大統領が拒み続けたやりとりが明らかになった。(国名、肩書は当時)

 ゴルバチョフ氏は91年4月、ソ連最高指導者として初めて来日。6回のトップ会談を経て、両首脳は国後、択捉両島を含む北方四島の名前を列挙した共同声明に署名した。ソ連は「領土問題は存在しない」との立場を貫いてきたが、共同声明は「領土画定問題」の表現で、北方四島が交渉対象になることを初めて文書に記した。一方、56年宣言は明記されなかった。

 日本政府は(1)四島が交渉対象だと確認する(2)56年宣言の有効性を認めさせる―方針で臨んだ。4月16日の第1回会談で、海部氏は国後・択捉に対する日本の主権を認めて四島を返還するよう要求。翌日に少人数で行った第3回会談では、「国際法の規範を守る『新思考外交』を標ぼうする貴国の立場からしても、共同宣言が歴史の事実として存在している点は認められるべきだ」と迫った。

   18日の第4回会談でも海部氏は56年宣言を「どうしても記したい」「事実として記載しよう」と食い下がったが、ゴルバチョフ氏は同意せず、宣言を巡る議論は難航。3回の予定だった会談は最終的に6度に及んだ。

   宣言明記を拒むゴルバチョフ氏の主張は今回公開された会談録でも黒塗りだが、応酬の中には「100グラムのレモンから110グラムのジュースを絞ろうとしている」と皮肉ったり、批判を展開したりする場面があった。

   当時、ゴルバチョフ氏の国内基盤は動揺し、経済状況も悪化していた。ただ、第1回会談で「ドルで原則を売却することはしない」とくぎを刺し、「困難に直面しており圧力さえかければ良い、という推測は妄想に基づくものだ」とけん制。外務省はこうした姿勢について、4月23日の閣議で配布した報告資料で「国内におけるさまざまな政治情勢を考慮した故だろう」と指摘した。

   会談で「平和条約交渉をダイナミック、急速に開始するための前提をつくり上げた」と述べたゴルバチョフ氏だったが、91年8月の保守派によるクーデター未遂事件を契機に急速に力を失った。両首脳が確認した海部首相訪ソは実現しなかった。

   外務省は原則として作成から30年が経過した外交文書を定期的に公開。東京・麻布台の外交史料館で閲覧できる。