その日は突然で、あっという間だった。29日午前、苫小牧市役所で行われた辞職表明の臨時記者会見に、岩倉博文市長は車いすで押されて姿を現した。かつてのような力強さはなく、脚はスーツの上からでも細くなったことが分かる。顔色もどこか青白い。
ただ、会見で岩倉市長は「就任当時から課題、難題をみんなで一つ一つクリアし、今の苫小牧をつくってきた。ある意味、生意気な言い方だけど、達成感はある」。言葉の端々に一時代を築いた自負をのぞかせた。
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昨年11月7日夕、岩倉市長は出張先の韓国で倒れた。苫小牧港をPRするポートセールスで、関係者と仁川国際空港に到着後、意識を突然失った。心室細動による不整脈で、一時は心肺停止。心臓マッサージなどで呼吸や脈が戻ったが、医療機関の集中治療室(ICU)に運ばれた。
韓国からの一報で、市内に激震が走った。最悪の事態も想定されたとあり、市長の健康状態が市民の関心事となった。その後は手術やリハビリを経て、今年2月に公務復帰を果たしたが、市長自ら「(体調回復は)もうちょっと」などと話す姿に、徐々に進退を問う声が上がるようになった。
春先は順調な回復を印象付けたが、6月の市議会定例会後、肺炎と脱水症状や血圧低下などの症状が見られる「副腎機能不全」で入退院を繰り返した。7月17日に市長が意思決定できない場合に職務を代理する「職務代理者」を設置した。韓国で意識不明になって以来、2度目。苫小牧市政史上、初の出来事だった。
8月28日に公務復帰を果たしたが、半ば強行的な印象を周囲に与えた。体力、筋力の低下もあり、車いすに乗って職務をこなす状態。復帰後間もない9月の市議会定例会では、市長の健康状態を不安視する「休憩動議」が出される異例の事態も。議員からは「市長に質問することもできない」との声が漏れた。
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一方、2006年7月の市長選で初当選して以降、盤石の体制で市政のかじ取りを担い、5期目の今期は「最後のチャレンジ」の位置付け。岩倉市長は病気から復帰するたびに「迷惑をおかけした分を取り返す。残された任期、覚悟を持って市政運営を進めていく」と意地を見せ続けた。
後援会長を務める苫小牧市医師会の沖一郎会長も「本人は最後までやりきりたいという続投の意思を示していた。希望を大事にしたかった」と市長の意思を尊重した。木村淳副市長も過去に職務代理者として臨んだ会見で「(岩倉市長は)市長の責任として無理をしてでも公務に当たるという気持ちがあったのでは」と心境を察した。
ただ、岩倉市長に市長職をこなす体力は既になかった。衆院議員時代から開設するホームページの「ダイアリー(日記)」も、6月22日を最後に更新されなくなった。今月12日に肺炎で再入院。1週間ほどで退院したが、岩倉市長は「自分の体がこれ以上良くなることが見込めない。入院して何とかなると思っていたが、悪い傾向も出ていた」。最後は自ら決断した。
28日に辞職届を市議会の藤田広美議長に手渡し、藤田議長も「さまざまな取り組みを、特に終盤は命がけで取り組んでいただいた」と感謝した。議会の同意をもって11月5日に辞職する予定となり、岩倉市長は「満了までいかなかったのは心残りだが、やったという気持ちがある」。5期18年余り続いた岩倉市政に幕を下ろす。
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岩倉博文市長が体調不良を理由に任期途中の引退を決意し、11月5日付で辞職する見通しとなった。岩倉市長が辞職に至った経緯や5期18年余りに及んだ岩倉市政の歩みなどを緊急リポートする。