<18>昭和37年 内陸掘り込み進み日高本線切り替え 農業基本法が生んだ「労働力」の流入
- 2023年8月18日
昭和37(1962)年、苫小牧港の内陸掘り込みは進み、この年の暮れには日高本線が内陸に移設されて運行を開始。港口は広々と掘り込まれ、翌年4月の第1船入港に向けて準備が進む。街では、初めての近代的ビルである王子不動産ビルが、やはり翌年4月の完成を目指す。人口は増加に拍車が掛かり、この年から翌年、翌
昭和37(1962)年、苫小牧港の内陸掘り込みは進み、この年の暮れには日高本線が内陸に移設されて運行を開始。港口は広々と掘り込まれ、翌年4月の第1船入港に向けて準備が進む。街では、初めての近代的ビルである王子不動産ビルが、やはり翌年4月の完成を目指す。人口は増加に拍車が掛かり、この年から翌年、翌
昭和38(1963)年4月、苫小牧港に第1船が入港した。それは永年の夢の実現であると同時に、腹をくくって臨港工業地帯と街をつくらねばならぬという新たな時代の始まりでもあった。市街地では王子不動産ビルをはじめとする近代的ビルが建ち始め、景観が変わっていく。多くの人々の暮らしが潤う一方で、この年だけ
昭和39(1964)年は、前年に第1船を迎えた苫小牧港の整備と利用が進み、工業地帯に企業が張り付く中で、多くの新たな役所や庁舎、施設、建物ができ、街の様相が大きく変化した年であった。苫小牧は国の全国総合開発計画と新産業都市計画の中にはまり込みつつ、拡大を続ける。双葉町、音羽町、美園町など鉄北地区
港の整備が進んだ。有珠川(現在の苫小牧川)の河口近くに苫小牧灯台が完成し、苫小牧港管理組合が発足した。昭和40(1965)年という年は、東京五輪(昭和39年)後に景気が落ち込んだ、高度経済成長の息継ぎのような時期であった。それも11月には好況に転じ、戦後最長、57カ月間の「いざなぎ景気」に向かう
昭和41年といえば、わが国はなお高度経済成長のただ中にある。所得の増大で、消費生活が向上した。例えば苫小牧でも高級果物が売れ、バナナなどは価格の下落などもあって1年間で3倍以上の消費量になった。半面野菜は消費量が減少し、食糧難の時代に食膳を助けた大根などは、半分に減った(以上グラフ参照)。開発が
苫小牧港は、急激に発展した。第一船が入港(昭和38年4月)してからわずか4年で、貨物取扱量は年間600万トンにもなった。その多くが石炭ではあったが、商港区の整備の中で「商港」としての性格を強めつつあり、さらなる整備のために待望の20億円の予算が付いた。高度経済成長と港湾整備の進展によって、既存企
苫小牧のまちづくりの中で、この年ほど多くの施設が生まれ、あるいは姿を消したことはなかったに違いない。市民会館、西町下水処理場、婦人ホーム、学校給食センター、美園小学校などが完成し、糸井団地の造成や青少年センターの建設が始まり、市立総合病院は第二期工事を終えて竣工(しゅんこう)した。港の建設に予算
わが国の高度経済成長は、昭和48(1973)年のオイルショックを節目に「安定成長(低成長)」へと移り変わった。それまでのような右肩上がりの経済は、もう考えられない。だが、高度成長の中で立案された国策である苫東開発計画は引き続き進められていく。この辺りのちぐはぐが、後のまちづくりと市行政の体質に少
後の時代の分析では、第1次オイルショック後の景気後退は昭和50(1975)年3月には底入れし、以降徐々に回復したとされる。だが、実感としてはとてもそのようではなかった。内需の減少、燃料価格の高騰で鉄鋼や紙パルプなどは大幅赤字となる。高度経済成長時代の「ぜい肉」を削ぎ落とす減量経営が行われ、苫小牧
昭和48(1973)年の第1次石油危機によって、わが国経済は高度成長から安定成長へと向かう。同49年、それまで全道一景気の良い街であった苫小牧にも不況の波が押し寄せてきた。この年を苫小牧民報は「注目を浴びていた苫東開発も、わが国経済の転換に逆らえない情勢となった。苫東という巨大ナショナルプロジェ
1973年、元号でいえば昭和48年の10月、第4次中東戦争の勃発による第1次石油危機が世界を襲った。いわゆるオイルショック(第1次)である。1960年代後半からわが国は他の先進国同様インフレの中にあって物価高騰が進んでいた。それがオイルショックによって原油価格が4倍にもなり、物価高、モノ不足の波は
年明け早々、新港(東港)に7億6000万円の初年度予算(国費)が付き、景気に弾みを付けた。2月には札幌五輪開催、苫小牧のハイランドはサブリンクだ。苫東開発の用地買収は最終段階を迎え、触発されて土地ブームが起こり、億のカネが飛び交った。港は、フェリー就航で工業港という無骨なイメージを一新し北海道の
さらなる高度経済成長を支えようとする苫東大規模工業地帯計画に拍車が掛かるこの年、用地買収が進み、柏原、静川、弁天の開拓団が解散。また、厚真地区では離農や農家の若者の離家が進んだ。視野を広げれば、新全国総合開発計画によって地方での大規模工業地帯開発が進められる一方、農村では全国的な米余りを背景に減
苫小牧を自ら「青年都市」と呼んだのは、何もまちの成長過程を捉えてのことだけではない。実際、このまちの昭和45年の65歳以上人口は5%にも満たず、朝の駅前は高校生たちであふれ、春から「空前の結婚ブーム」などといわれてカップルは披露宴の会場確保に苦労した。苫小牧市青少年センターや屋内スケートリンク(
昭和44年というこの年。今、古希を過ぎたあなたは10代の若者で、新たな旅立ちに胸を膨らませていた。還暦を過ぎたあなたなら小学校入学前後のあどけない子どもで、この年放送開始の「ハクション大魔王」や「ひみつのアッコちゃん」を普及著しいカラーテレビで見ていただろう。昭和元禄といわれる天下泰平の中で日本