<45>(最終回) 昭和64年 天皇陛下ご逝去、 「激動の昭和」終わる 時代を画した「1989年」 技術開発へ、 財政基盤しっかりと
- 2024年3月25日
高齢となった天皇陛下(昭和天皇)のご容体の悪化が報じられたのは、昭和63(1988)年9月のことであった。以前から体の不調を訴えられていてそれが小康状態となったが、一転、9月19日に出血されて重体となった。以降、陛下のご容体は毎日報じられ、日本全体に自粛ムードが広がる中で、国民は昭和という時代の終
高齢となった天皇陛下(昭和天皇)のご容体の悪化が報じられたのは、昭和63(1988)年9月のことであった。以前から体の不調を訴えられていてそれが小康状態となったが、一転、9月19日に出血されて重体となった。以降、陛下のご容体は毎日報じられ、日本全体に自粛ムードが広がる中で、国民は昭和という時代の終
景気が上昇を続けている。この時代のわが国経済のバブル期というのは一般に昭和60(1985)年12月以降、平成2年に株価が下落し、翌3年に土地価格が下落して破裂するまでの景気上昇期とされる。ただ、その景気が泡(バブル)のように中身の無いものであるか否かは、当時は分からない。ともあれ昭和63年、苫小牧
昭和62(1987)年のこの年、苫小牧の建設業界は、久々の建設ラッシュに沸いた。ここ7、8年は1400から1700戸ほどだった住宅建築が2400戸にも上った。分譲住宅も売れた。バブルへの先駆けか。4月、市長選挙で元市議で元市職労委員長の鳥越忠行氏が民間出身で現職の板谷実氏を大差で破って当選(5万1
内閣府の景気動向指数によれば、この昭和61(1986)年からバブル(経済)といわれる時期に入ったとされる。土地、建物、絵画などの資産価値が実態以上に値上がりし、好景気が5年ほども続き、やがて崩壊する。ただ、その開始時期はこの年の12月とされ、また、私たち庶民が好景気を実感するのはまだまだ先、この2
昭和59(1984)年のこの年、紙パ業界など本州大手企業の一部に好景気ムードが見られた。苫小牧でも、いすゞ自動車北海道工場の開所や王子製紙の大型設備投資などがあり、福祉施設の建設も少なくはなかった。しかし、地域全体としては一向に好況に転じないのである。いや、むしろ地場事業所、商店の倒産は前年よりも
昭和58(1983)年は、倒産ラッシュの年であった。苫小牧圏の負債額1000万円以上の企業倒産は137件を数え、中でも建設業が63件で、圧倒的に多かった。全国を見れば景気は緩やかながら回復しつつあった。しかし、北海道でそれが見られなかったのは、この時の景気回復のリード役であった輸出産業が北海道には
昭和57(1982)年、3年前の第2次オイルショックによる不況はなお続いていた。大手の企業のすべてが構造不況に陥り、それを象徴的に見せつけたのは日軽金苫小牧工場の大幅な人員削減だった。前年からの減産が3月末には電解炉の一部を除いた休止に至り、6月末までに転勤・希望退職を実施して前年夏には1000人
昭和56(1981)年。高度経済成長の時代から試練の時代へと移り、その時代が長引くにつれ、社会には開き直りというか、物事を斜に見るというか、そのような風潮が生まれ、精神土壌や文化に変化が表れ始めた。若者の間に職業を転々と変える「青い鳥症候群」が広がり始め、つっぱりファッションが流行し、応援団風の学
昭和56(1981)年。高度経済成長の時代から試練の時代へと移り、その時代が長引くにつれ、社会には開き直りというか、物事を斜に見るというか、そのような風潮が生まれ、精神土壌や文化に変化が表れ始めた。若者の間に職業を転々と変える「青い鳥症候群」が広がり始め、つっぱりファッションが流行し、応援団風の学
昭和55年、1980年代が幕を開けた。2年ほど前からいわれ始めていた「地方の時代」という言葉が前年の統一地方選挙の中で取り沙汰され、一般化したのはこの頃である。高度経済成長を持続させようと国策・公共投資による重厚長大政策が環境破壊や資源の浪費など諸問題を引き起こし、経済は成長するが生活は豊かになら
昭和54(1979)年は、第2次オイルショックの中にある。第1次ショックのような騒動には至らなかったが、物価が上がり、景気は減速した。そんな中で策定された苫東第二段階計画では重厚長大の方針がなお続けられ、札幌通産局の寺田恵一局長が「苫東のマスタープランの設計者は経済問題の素人。土建屋的発想だ」とこ
苫小牧港とニュージーランド・ネーピア港の姉妹港締結(2月)へと、晴れがましさの中で迎えた昭和53年。しかし、苫小牧市はこの年、前年突然飛び出した石油備蓄基地建設計画で振り回された。苫東はといえば、企業立地が進まないのに開発予算はどんどん増額され、それに吸い寄せられて人が増える。それを受け入れるまち
敗戦とともにわが国が平和と民主主義を根幹とする新しい時代に踏み出したのは今から77年前、昭和20(1945)年8月のこと。私たちの郷土もまた新時代への出発点にあった。以来の歩みをたどれば、人々は飢えをしのぎ、教育を復興し、港を掘り、原野を工場用地とし、湿地を埋め立てて住宅地に変え、まちは多くの先
食糧不足、物資不足は昭和21(1946)年が明けていよいよ激化した。この年2月、政府は「食糧緊急措置令」を公布し、警察権をもって農家に食糧供出を強制し、「隠し米」を摘発した。食糧、物不足の中でインフレが進んだ。終戦から1年間で物価は4、5倍になった。人々は極度の困窮の中にあり、苫小牧ではデンプン
昭和22(1947)年が明けても、食糧不足とインフレはなおも進んだ。人々の困窮は続き、苫小牧駅のホームは買い出しの人々であふれた。しかし、その間にも敗戦後の占領政策の中で、国の形は大きく変わっていった。前年公布された日本国憲法が5月3日施行された。国の姿を将来に向けて決めるのは教育であった。憲法
食糧難、住宅難、引き揚げ者の生活自立など多くの課題を抱えつつも、昭和23(1948)年は、苫小牧にとって大きな節目の年であった。この年4月1日、苫小牧は「町」から「市」ヘと変わり、人々は郷土の発展に希望を抱き、町を挙げてこれを祝った。10月にはもう一つ大きな喜びがあった。学校給食の始まりである。
昭和24(1949)年という年には、実に多くの出来事があった。年表を追うなら、1月の衆院議員総選挙で苫小牧港築港に尽力する篠田弘作氏(以下各氏敬称略)が初当選。4月には元町海岸のわずかな試験突堤が「港」として登録されて苫小牧港建設の口火となった。7月には支笏洞爺国立公園が誕生、8月には柏原に広島
終戦直後の食糧不足も昭和24(1949)年には幾分落ち着きを見せ始め、戦後の不景気は昭和25年夏に始まった朝鮮戦争による「特需」で活況に転ずる。市制施行から2年を経た苫小牧では、苫小牧港の試験工事実施、市立病院の新院舎完成、上水道工事着手、市営バス運行開始、地域紙「南北海」および「市政だより」創
太平洋戦争終戦後の10年ほどの間というのは、まちの将来に関わるあれこれの出来事が実に数多く見られる時期である。今回取り上げる昭和26(1951)年というのはとりわけそうで、第一に苫小牧港起工がこの年であり、まちの文化の中心となる市立図書館が開館したのもこの年である。前年営業を開始した市営バスの車
昭和25(1950)年から同28年に至る朝鮮戦争による特需は、敗戦後のインフレと不況にあえいでいた日本経済を好況に導いた。その後、特需の反動による一時的な不景気はあったものの、昭和29年末期から空前の好景気の時代、いわゆる「日本の奇跡」ともいわれた高度経済成長期に入る。昭和27年とその前後の年は
昭和28(1953)年は、戦後という時代の将来がわずかに見え隠れした初年だったかもしれない。前年、サンフランシスコ講和条約が成り、占領地日本に主権が戻った。それとともに、それまで何につけ泣き寝入りだった米軍基地や演習場接収の問題が表面化した。朝鮮戦争は終わったが、日本の軍事的重要性は高まり、講和
昭和52(1977)年は苫東で明け、苫東で暮れた。北電の苫東厚真火力発電所が着工し、計画には一言もなかった石油備蓄基地建設が突然飛び出してゴリ押しされた。その間、大企業だけが寄り集まって会社をつくってもうけようというような計画まで出てきて紛糾した。市街地では駅前再開発ビル「サンプラザ」がオープンし
昭和29(1954)年というのは、どんな年だったのだろう。日米相互防衛援助協定、余剰農産物購入協定などMSA四協定締結、自衛隊発足と防衛力増強。東西冷戦の中、再生日本は米国の傘の下で経済力を高め、高度経済成長へと向かう。「金の卵」の中学卒業者を乗せた集団就職列車が初めて運行され、地方の若者たちが
終戦から10年を経た昭和30(1955)年。前年12月からわが国は、後に「日本の奇跡」といわれた高度経済成長期に入った。朝鮮戦争による特需景気で同28年後半ごろには戦前の経済水準に戻り、昭和30年度は、鉱工業生産をはじめとして実質国民所得、農業生産、消費水準など、貿易を除く各分野で戦前最高時を大
高度経済成長が始まって「もはや戦後ではない」と経済白書がうたい上げ、国連加盟がようやく認められて日本が国際社会に復帰したのが1956(昭和31)年のことである。政府は、アメリカの援助や特需に依存しない経済を樹立しようと「経済自立5カ年計画」をスタートさせた。北海道については「北海道総合開発計画第
「北海道の工業発展の基盤としての工業港の整備」という方向性が明らかになった苫小牧港だったが願うほどに建設は進まず、「この港造りは無駄ではないか」との声が上がったのが昭和32(1957)年のことであった。結果的にはそれを乗り越えて建設は進み、この年から苫小牧港建設と工場用地整備に関わる一連の工場立
昭和29(1954)年後期から始まった「神武景気」は、同32年7月に至って「鍋底不況」の時期に入る。過剰な設備投資や在庫の急増などによって、翌33年前半まで景気の冷え込みが続く。しかし、同年7月には国内消費が再び高まって「岩戸景気」のにぎわいを見せる。そんな景気の浮沈の中で、苫小牧では労働運動史
無期限ストが解除されたとはいえ、昭和34(1959)年が明けても王子争議の波乱は一向に収まらない。「労、労、使」の協議は行きつ戻りつし、この年春の市議選は、「会社」と「王子労組(第一組合)」「王子新労組(第二組合)」の候補が入り乱れて議席を争い、メーデーは分裂。その余波は小中学校PTAの役員選び
昭和35(1960)年といえば、岩戸景気(昭和33年7月~同36年12月)のど真ん中である。経済を飛躍的に成長させて完全雇用、生活水準の向上を目指す国の新長期経済計画が進む中で、「10年間で国民所得を2倍にしよう」という所得倍増論が打ち出されたのがこの年。工業基盤の構築と拡充が進み、苫小牧では港
昭和36(1960)年。とにかく景気がいい。港の建設が進む苫小牧は特にそうで、3月末に苫小牧税務署がまとめた昭和35年の申告所得総額は約15億5700万円、前年比約35%増で36年もそのくらいの伸びが見込まれた。税額は45%の伸びだ。工業開発事業とその影響による土地売買などが要因で、その土地は高