大切なもの
- 2023年9月23日
今年の夏は暑くて、いわゆる”北海道らしさ”がなかった。穂別のお店やガソリンスタンドに寄ると、「先生、これじゃ北海道に来たかいがないな」と声を掛けられた。涼を求めて来たわけではないのだが、「ほんとほんと、なんとかしてよ」と答えて笑い合う。自分もこの町に迎え入れてもらいつつある
今年の夏は暑くて、いわゆる”北海道らしさ”がなかった。穂別のお店やガソリンスタンドに寄ると、「先生、これじゃ北海道に来たかいがないな」と声を掛けられた。涼を求めて来たわけではないのだが、「ほんとほんと、なんとかしてよ」と答えて笑い合う。自分もこの町に迎え入れてもらいつつある
コロナ禍の”規制”が世の中からほぼ姿を消したことで、2020年1月のマニラ以来途絶えていた海外出張を本格的に再開した。リモート会議は便利だが、互いの波動が伝わらない。 今月の最終週からは複数の共同研究開発を進めているMIT(マサチューセッツ工科大学)のあるボストン、
ムツゴロウさんにお会いできたことは、わたしの財産の一つである。「どうにか会いたいです!」という、ブルドーザーのように突き進む猪突(ちょとつ)猛進のわたしの希望はかない、中標津のムツ牧場さんを訪れたのは2019年のことだ。 緊張して何を話したか、どんな様子だったかは実のところ覚えていない。多
私の本棚には今も父の形見である一眼レフカメラが置いてあります。父は学徒出陣で満州に行き、シベリアに2年間抑留されました。抑留されていた頃のことはほとんど話してくれませんでしたが、私が中学生くらいになると、零下40度の中で川から砂利をすくってシベリア鉄道の支線の敷石にする作業をやったこと、夏はアブの
「皆さん、おはようございます。まずこの講義のゴールからお話しますね」 診察室とは違うあいさつを口にして、少しだけ緊張する。北洋大学での夏季集中講義の一コマだ。 今年度から客員教授を務める北洋大学での講義のテーマは、「メディア社会と心」。ネットの発達やスマホの普及で、10年前とは比べ
中標津空港に着いた。羽田を出たときはまだ蒸し暑い9月の風が吹いていて、黒いTシャツが肌にペタリとくっついていたが、空港に降り立った瞬間、羽織るものを持ってこなかったことを悔やんだ。なかしべつ、って、こういう漢字を書くのだね、と言いながら迎えに来てくれた先輩の車の助手席に座った。 「急に来た
このコラムの第1回に父方の祖父も母方の祖父も灯台守で、北海道の灯台を中心に勤めていたことを書きました。また、高校生から大学生まで、好き過ぎて毎年夏休みに北海道旅行をしていたことも書きました。その中で祖父が勤めていた灯台、すなわち一家が生活していた灯台を訪ねています。その中の二つをご紹介したいと思い
診察室で医者が白衣のポケットからスマホを取り出し、何やら操作。「先生、真面目に診察してよ」と言われそうな場面だ。でも、これはある人たちを診察するのに欠かせないことなのだ。 「ある人たち」とは外国からの技能実習生。農業が盛んな穂別には、常に中国人とベトナム人の若者たちが実習生として来ている。
皆さんは赤と青のどちらがお好みですか? 私は実に38年も前からずーっと青が好みで・し・た。過去形なのはこの一年で嗜好(しこう)がすっかり変わったから。というより、ご無沙汰していた赤の、笑顔あふれる身のこなしに触れ、心の奥底で何となく青に抱いていた不満が一気にあふれ出たといったところでしょうか。
10年ほど前から犬と猫の保護活動を手伝っている。といっても大げさなことではなく、ごみ拾いをしたり(動物がごみを食べてしまうのでごみ拾いも活動の一つなのだ)、犬と猫の保護団体で時折掃除や散歩のお手伝いをしたり、寄付金を集めるフリマに参加したり。もともと動物に愛がある人間だとは言い難い。お世話より麻雀
航空業界独自の用語は数え切れないほどありますが、金融機関出身の私が見聞きする中で不思議に思ったものからご紹介します。 まず、予定していた機材を変更することを「シップチェンジ」(SHIP CHANGE)と言います。初めて聞いたときは「船」?と思いましたが、実は、航空用語には海運用語に由来した
診療所の勤務が終わると、ときどき裏口から出て短い階段を駆け上がり、高齢者施設の敷地を通り抜ける。すると、もうそこは穂別博物館だ。所要時間は3分ほどだろうか。 博物館は午後5時に閉館なので、展示は見られない。でも、小ぶりでシンプルだけど近代的な本館と小さな道路を挟んだところにある化石の収蔵庫
私たちは今、エンジンで飛ぶ大型ドローンを開発している。150キロもの荷物を持ち上げ、何時間も飛び続けるために独自に設計したのは、大型バイクのDNAを持つ1000ccの純国産ドローン専用エンジン『國男』。時速300キロを軽々と超え、20世紀最速の市販バイクの伝説を生んだ『隼』のエンジンデザイナー、元
「そうそう、さやかさん、いい温泉があるのよ」 10年ほど前のこと。子ども同士も仲良くさせていただいていたお隣の奥さんとの立ち話。わたしが温泉好きで、という話からの流れである。 「あのね、さやかさん、うちの家族みんな、そのお宿が大好きで」「そうなんですね」「お食事が、もうおいしくて」
私は大学時代、数多くのアルバイトをしました。親元を離れての寮生活でしたが、親からの仕送りを抑えていましたので、カロリーをお金に変えないと生活が回っていかなかったからです。 中高生向けの塾の講師のアルバイトは大学4年間続けましたが、それ以外に、団体旅行の添乗員、リゾートホテルのドアボーイや別
「えーと、このあいだの血液検査の結果なんですが、貧血がありますね。あと腎臓も少し弱っているようで、その原因をもう少し調べる必要が…」 「先生、もう90歳ですからね、トシってことですよ。私は今年も畑仕事ができてるから、これでいいんです」 こんな会話を今年も何人かと交わし
ロシア極東最大の都市ウラジオストクは金角湾を中心に市街地がすり鉢状に広がっている。2012年8月、その湾のど真ん中にV字型の美しい斜張橋が架かった。全長2・1キロ、コンクリート製の2本の主塔の高さは260メートルに及ぶ。 当社はこの橋の建設予定地にイタリア製の生コン製造プラントを持ち込み、
東京に住む演劇仲間、川原田樹の地元は北海道の大曲(北広島市)。彼は毎年大曲に雪かきに帰り、大雪の動画を送ってきてくれる。東京では考えられない別世界である銀世界を、スマホの小さな画面で見るのが好きだ。 「札幌で生まれたんだけどさ、北広島市に越したんだよ」「北広島市?」「日ハムの球場があるよ、
AIRDOは、社会貢献活動を三つの柱で実施しています。「人を育む」、「自然を大切にする」、「災害復興を支援する」の三つです。そのうち、「人を育む」の中心的な活動が「航空教室」です。これは、北海道庁との連携協定に基づくもので、道内の小中学校の「総合的な学習の時間」という正規の授業として実施しています
待ちに待った春が来て、穂別診療所の診察室でも「そろそろ苗を手に入れなきゃ」「今年は何を植えようかな」と家庭菜園の話をしてくれる人が増えてきた。「家庭菜園」とはいっても都会によくあるひと坪ほどのものではなく、かなりの広さらしい。「できたものは全国のあちこちにいる親戚に送る」「この年だけど野菜はお金出
3月30日午後。私は最大の取引先であるクワザワの桑澤嘉英社長を隣に乗せ、その日、日本中の話題をさらうことになる北広島への道を急いでいた(本当に急いだのはハンドルを握る弊社の社員だが)。ブルーインパルスが上空で祝賀の編隊飛行を繰り広げるなか、一向に車列が進まぬことにハラハラしながら、ボールパークのグ
2014年夏。バラエティー番組のロケで富良野へ。フジテレビのドラマ、倉本聰富良野3部作の最終章「風のガーデン」の撮影の地を訪れた。新富良野プリンスホテルの敷地内に、そこはあった。どこまでも続くグリーンの芝生。青い空。白い雲。なんと気持ちの良いことか。あの爽快感は今でも思い出すことができる。
2月のコラムで、五十の手習いで俳句を始めたと書きました。AIRDOに赴任する前から東京で幾つかの句会に参加していましたが、札幌に来てからも句会への参加を続けています。コロナ禍以降、出席回数が大幅に減ってしまいましたが、所属結社の札幌支部の皆さんと楽しい時間を過ごしています。 北海道で俳句を
朝、診療所の通用口に着いたら、耳慣れない音が頭上から降ってきた。驚いて目を上げると、首の長い真っ白な鳥が隊列を組んで飛んでいるのが見えた。 白鳥だ。本州で冬を越し、シベリアなどに戻る途中、春のひとときを北海道で過ごすとは聞いていたが、こんなに間近にその姿を見られるとは。私は興奮して、近くに
野球の「世界一決定戦」であるWBCに列島が沸いている。本稿はイタリア戦を目前にした16日午前の執筆。「侍」にはローマの末裔(まつえい)たちを打ち負かし、参加20カ国の頂点に立ってほしいと願うばかりだが、こうした勝敗へのこだわりとは真逆ともいえる(スポーツの?)世界があることを最近になって知った。「
今年で95歳になる祖母は愛知県に1人で住んでいる。祖母と住んでいた、わたしの母は5年前に亡くなった。娘に先立たれた祖母は「さみしい」と言った。「戦争でみんな死んでったから慣れとるわ」とも言った。先日祖母宅に泊まった時、2人でゆっくりと話す機会があった。その日は祖母の補聴器の調子も良く、おかげさまで
飛行機に乗ってシートベルトを締めると、まず手に取るのが機内誌という方も多いと思います。AIRDOは「rapora(ラポラ)」という機内誌を毎月発行しています。「ラポラ」とは、アイヌ語で「はばたく」を意味する「ラポラポ、ラポラポラ」が語源です。今年の3月で創刊から210号となりますが、今の機内誌のス
少し前の話になるが、今年の年賀状はなかなかおもしろかった。むかわ町穂別で働き始めたことを知った人たちからの賀状に、「実家に帰ったんですね」というひとことが書き添えられていたのだ。 私は札幌で生まれ、幼稚園に入る頃に家族と小樽に引っ越した。両親は他界したが、家はまだ小樽にある。穂別と小樽は1
ロシアのウクライナ侵攻から早一年になろうとしている。「戦後」の終焉(しゅうえん)を告げたこの暴挙のニュースに接するたびに、思い起こす顔がある。ロシア外相のセルゲイ・ラブロフだ。 O・J・シンプソン事件の逃亡劇に全米がくぎ付けとなった1994年6月16日。ちょうどその前日にニューヨークに赴任
わたしの初北海道は1995年ごろ。地元名古屋から乗った太平洋フェリーで苫小牧に降り立った。真冬の寒さは、名古屋の比ではなかった。港の吹きっさらしの風のおかげで、あっという間に身体の芯まで冷え切った。 その寒さすら、憧れの北海道だからだろう。興奮していた。子どもの頃、社会科の時間に地図で見て