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千歳・恵庭

往時5千人、盛衰の果て 千歳鉱山跡地を歩く

2015/8/27配信

 支笏湖を見下ろす千歳市美笛地区には金を掘り出す千歳鉱山があった。1986年の閉山まで53年間にわたり約20トンの金を掘り出し、戦前から戦後に至る道内鉱業の一翼を担った。26日、千歳市とNPO法人「千歳ひと・魅力まちづくりネットワーク」主催の見学バスツアーに同行し、最盛期に約5千人が暮らしたヤマの跡地を歩いた。

 千歳鉱山は33年に金の露頭が見つかり、36年に千歳鉱山株式会社が設立された。掘り出した金や銀の鉱石をトロッコで積み出し、台船と王子軽便鉄道を利用して苫小牧に運んだ。鉱山周辺には労働者の社宅群が広がり、戦中時には千歳町(当時)の人口の35%を占める約5000人が暮らしていた。

 千歳市中心部から車で約1時間、国道276号を美笛峠に向かうと国道の両側に駐車場がある。そこが鉱山跡地の入り口だ。車を止めて砂利道を歩く。間もなく美笛川に架かる橋が見えた。かつて役場支所やグラウンド、社宅群があったらしいが、草木が生い茂っているばかりで痕跡は見当たらない。

 さらに砂利道を奥に進み、「永代橋」と書かれた2本目の橋を渡る。「この辺りに教員住宅があったんですよ」。63年から千歳鉱山で暮らし、閉山まで事務員として務めた相馬朋子さん(74)=千歳市梅ヶ丘=が教えてくれた。

 相馬さんによると、鉱山には1000人収容可能な会館があり、住民が映画や芝居を楽しんだという。小学校や中学校に子供たちが通い、魚菜市場や理髪店も営業する「町」を形成していた。相馬さんは「自分だけの秘密の場所で山菜採りを楽しむ人もいた」と振り返った。

 終戦後の48年に出鉱を再開したが、職住分離が進み、結果として町は衰退をたどる。相馬さんも77年の社宅閉鎖後、市街地に移った。金の価格低下や資源枯渇の影響で合理化による人員縮小が続き、ヤマは往事のにぎわいを取り戻すことなく86年に閉山した。

 道中、ヒグマのふんが見つかったため、残念ながら美笛の滝の近くにある坑口跡に行くことはできなかった。参加者の一人が「こんな場所に5000人も住んでいたなんて」とつぶやいた。帰り際、戦前の活況を想像しながら見渡したが、周囲は静かなままだった。
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