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百寿たちの記憶-終戦から73年

(4)ビスマルク海海戦を体験 苫小牧市明徳町・綿貫喜幸さん(101)

2018/8/17配信

 「戦争は家族のささやかな幸せさえをも奪い取ってしまう。子どもの誕生を祝ったり、一緒に食事を取ったりすることもね」

 幼い娘を写した古い白黒写真を見詰めながら、家族の日常を切り裂いたあの忌まわしい時代を振り返った。

 群馬県の出身で、仕事で千歳町(現千歳市)にいた1941(昭和16)年、召集令状が届き、日中戦争の任務に当たる陸軍歩兵連隊の兵士として満州(中国東北部)へ。部隊と共に移動し、翌年の42年から現在の広東省などを流れる河川・東江の付近で陣地警備を担った。

 銃を手に60分交代で朝も夜も周辺に目を配る日々。歩哨に立っていた上等兵が敵兵の銃に撃たれ、命を落とすなど常に緊張が絶えなかった。

 この年の2月、苫小牧で暮らす妻のスヅイさん=現在94歳=から兵舎に一通の封筒が届いた。封を開けてみると、前年10月に生まれた長女ヤヨイさんが生後100日を迎えたことを知らせる便箋と、1枚の写真があった。

 長女が誕生した時はすでに戦地。「送られてきた写真で女の子が生まれたと知り、娘の顔も初めて見た。すぐに会いたかったけれど、どうしようもなかった」。大事な娘の写真はお守り袋の中にそっとしのばせた。

    ○   ○

 満州での任務を終えて42年11月、移動の命令が下った。中国からパプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルへ。「激戦の南方。次はいよいよ死ぬかもしれないと覚悟した」と回想する。

 日本軍はこの年の1~2月、「ラバウルの戦い」とも呼ばれる連合国軍との戦闘でラバウルの港を占領。大規模な基地を設け、南方の島々に進出する作戦で激しい戦いを繰り広げた。

 だが、戦況は次第に悪化。翌年の43年3月には連合国軍のさらなる攻撃に備えてニューギニア島ラエ基地を増強するため、武器を積み込んだ輸送船に乗り込み、ラバウルの港からラエを目指した。

 船内で妻からまた送られた手紙の封筒を開いた。娘の1歳を祝う写真が入っていた。「娘の成長に立ち会えない悲しさが胸にこみ上げた」と思い返す。

 悲劇は突然襲い掛かった。ラバウルを出港してから数日後、ニューギニア島とニューブリテン島の間にあるダンピール海峡付近で、兵士7000人を乗せた輸送船団が連合国軍の戦闘機による猛攻撃を受けた。船に迫る多数の戦闘機と精密な攻撃に「これは勝てないと思った」。日本軍の輸送船8隻全てと護衛の駆逐艦があえなく撃沈。”ダンピール海峡の悲劇”と後に語り継がれたビスマルク海海戦で、約3000人もの兵士らが死んだ。

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 沈没する船から自身も海に飛び込んだ。浮き輪代わりの竹筒につかまり、他の兵士ら数人と共に3日間、太平洋を漂流したが、娘の写真を入れたお守り袋だけは離さなかった。「死ぬのだろうな」。そうとしか考えられない状況だった。しかし、運良く日本軍の船に助けられ、九死に一生を得た。

 多くの仲間の兵士たちが船と共に沈んだり、遺体が海に浮いたりしている地獄絵図を目の当たりにした。そうした中で奇跡的に生き残ったものの、「命を落とした仲間の兵士らに申し訳ないという思いでいっぱいだった」と話す。

 海戦の後、助けられた船でラバウルに戻り、部隊を再編成してニューギニア島へ。マラリアを発症し、43年秋に日本へ帰還した。

 45年春にまた召集がかかった。「この時、次女が生まれてまだ2日目。また家族と離され、戦地へ行かなければならない」と悲しみつつ部隊へ。戦地に行かないまま終戦を迎えたが、「あの時代の悲劇を今の若い人に知ってほしい。もう繰り返してはいけない」と力を込めた。

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