12

10(月)

胆振の
明日の天気

曇り時々晴れ

1 / -2

主要

東日本大震災から7年 あの日の思い、今も

2018/3/10配信

 あす11日、東日本大震災から7年を迎える。出身地の福島県郡山市で被災し今年、苫小牧署に新人警察官として配属された水間一生さん(20)、震災後、約半世紀を過ごした宮城県石巻市から古里に近い苫小牧に移り住み7年目の浅井敏雄さん(79)に今の心境、古里への思いを聞いた。

昨冬訪れ、恐ろしさ再認識 苫小牧署勤務の水間一生さん

 2011年3月11日午後2時46分、東北三陸沖をマグニチュード(M)9、最大震度7の大地震と大津波が東北を襲った。疲労やストレスなどによる震災関連死を含めた死者・行方不明者は2万5000人を超え、人々の心に深い傷を残した。今も東京電力福島第1原発事故で、故郷の家に帰れない人は数多い。

 苫小牧署地域課巡査の水間さんは被災当時、吹奏楽部に所属する中学校1年生で同県郡山市内の自宅で友達2人とゲーム機で遊んでいた。緊急地震速報がテレビで流れ、屋外に飛び出すと同時に大きな振動に襲われ、車も音をガタガタと上げて揺れていた。「立っていられないほどの強い揺れで地鳴りもあり、本能的にしゃがみ込んだ」。その時の恐ろしさを克明に記憶している。

 避難所に指定された近くの体育館へ逃げ、家族と一緒に一夜を明かしたが何十回も余震が続き、落ち着いて眠れる状況ではなかった。自宅の水道やガスも止まり、水を買うのに列を成し、1時間じっと待つ体験もした。中学校も1カ月ほど休校に。同級生や後輩たちを心配する忘れられない日々が続いた。

 幸い、親族らは無事だったが、神奈川県内の高校に進学後にできた友達の中には家族を震災で失った人もいた。

 17年4月に道警入り、今年1月下旬に同署美園交番に配属された。父親から北海道の食や自然の話を聞くうち、北海道への憧れを強くしたという。

 あす、震災から8回目の春を迎えるが、あの日を忘れたことはない。昨年冬、宮城県石巻市を訪れると震災前に行った漁港周辺の飲食店がすっかり無くなっているのを目の当たりにし、津波被害の恐ろしさを再認識した。

 人を助ける仕事に就きたくて、警察官になった。「身を粉にして働くつもり。地域に密着して役に立ちたい」。真っすぐな瞳で語った。

楽しかった記憶取り戻したい 末広町の浅井敏雄さん

 「7年たっても夢に見る。あのとき見たもの、聞いたこと、すべてを忘れたいのに忘れられない」と話す苫小牧市末広町の浅井さんは、妻の貴恵子さん(78)と2人暮らしだ。それぞれ日高町の富川、門別出身。製紙工場の関連会社に勤め、26歳で宮城県石巻市に移った。「ついの住み家とするのに本籍も石巻市内に移したんだ」。勤めを終えて市街地中心部の大街道地区に居を構え、趣味の将棋を楽しみながら過ごしていた。

 突然襲った大きな揺れに驚き、ほとんど着の身着のまま外に飛び出した。避難先は自宅の北に建つ大街道小学校。「ここで104日間も過ごすとは思わなかった。すぐ帰れると思っていたから何も持たなかった」。学校は地震の影響で停電していた。体育館にいると、午後4時すぎに津波が来た。男の声が「3階に逃げろ」と叫ぶ。3階の窓からはグラウンドが見え、がれきの渦が乗用車6台を押し出しのみ込んでいたところだった。

 容赦なく寒い日が続いた。支援物資に毛布が加わり、5月に電気が復旧するまで教室のカーテンにくるまり寒さをしのいだ。3月12日は正午に薄く切った食パンひとかけら、350ミリリットルペットボトルのお茶半分。夕方に豆5粒、スポーツドリンク1口を飲んだだけ。近くのスーパーに午前7時半から午後4時半まで並んだことも。同7時まで飲まず食わずでようやく紙コップの水1杯を飲めた日もあった。

 震災から3カ月後の6月22日、古里に近い苫小牧を目指してフェリーで石巻を後に。今でも寒く、飢えたあの日の夢を見る。震災で何もかも変わってしまった石巻に帰る気はもうない。かつての自宅周辺は緑地公園に変わった。苫小牧で暮らす中で貴恵子さんには友人もできた。

 寝室には知人からもらった「がんばろう日本」の横断幕。毎朝起きるたびに目に留め、前向きな気持ちを取り戻す。「夢は嫌なことも思い出させるがテレビや新聞で懐かしい石巻を思い、楽しかった記憶を取り戻せたら」

週間ランキング

集計期間 12/03〜12/10

お知らせ

受付

苫小牧民報社から