9

17(火)

胆振の
明日の天気

晴れ後一時雨

24 / 16

令和に伝える-戦後74年

(6)死ぬ覚悟は持っていた 苫小牧市新中野町・竹原石松さん(96)

2019/8/17配信

 「この歳になると過去の事なんてほとんど覚えていないよ」。柔和な表情で笑いを誘いながら自宅の居間にある机の上に世界地図を広げ、過去の記憶を一つずつ思い出した。

 第2次世界大戦が終わりを告げた1945年8月から約3年、ソ連軍の捕虜として抑留生活を送った。収容所を転々としながら原木の製材加工、収容所の炊事作業、建物建築などの労働に耐え、けがを負って日本に帰国できたのは26歳の時。戦後74年がたって改めて感じるのは「二度とこんな経験をさせてはいけない」という思いだ。

   ■    ■

 1943年3月、21歳の時に旭川の陸軍第七師団に入隊した。軍国主義が当たり前の時代で「死ぬ覚悟を持って入った」と振り返る。2週間後、北支派遣軍所属の二等兵として山口県下関から朝鮮半島の釜山へと渡り、汽車で部隊が待つ中国の山東省へ。半年の訓練を受け、その後2年近くをその地で任務に当たった。

 当初、日本軍は優勢と聞いていた。だが、戦況は次第に悪化。日本が本土攻撃を受けたとの情報が入ると部隊は加勢するため朝鮮半島へ南下。そのまま終戦を迎え、現地でソ連軍の捕虜になった。

 「どこの港かは忘れたが『東京行き』と書いてある船に乗った。日本に帰れると思っていたのに着いたのはソ連。だまされたと思った」

 最初の収容所はウラジオストクから少し離れた中国との国境に近い場所。そこでは木工所で原木加工の労働をさせられた。慣れない仕事に足を痛め、3カ月後に炊事担当へ。4人1組の2班に分かれ、24時間交代で日本人捕虜500人分の朝食と夕食を2年半作り続けた。

 「炊事といっても食材はあまりに少なく、朝は小さな黒パンにスープ、夕食はそれにおかずが一品付く程度。栄養失調の人もいた」

 過酷な労働を終えた仲間に出せるのはささやかな食事。正月とメーデーだけ配給される米もほんのわずかで、一皿で数粒見える程度のスープを作るのが精一杯だった。それでも仲間は喜んでくれ、「ほっとしたのを覚えている」と話す。

   ■    ■

 ウラジオストク郊外にあるアルチョームの炭鉱に移送された時、ソ連軍から2日間にわたって尋問を受けた。背中に銃口を突きつけられ、命令の内容などを聞かれたが「何で自分が取り調べを受けるのか分からなかった。でも、軍人として死ぬ覚悟だったので怖さは感じなかった」。

 その2カ月後、再び移送されたウラジオストクの収容所で建物の建築作業中に手を負傷。腕が大きく腫れ、急きょ送還される部隊と一緒に48年12月中旬、帰国した。船が着いたのは京都の舞鶴港。港の近くで流行歌が聞こえてきた時、日本に戻ってきたとしみじみ感じた。

 汽車を乗り継ぎ、故郷の沼田町に戻ったのは約1カ月後。家族や近所の農家仲間が出迎える中、「ただいま帰りました」と報告。6年近い軍人生活に終止符を打った。

   ■    ■

 毎年やってくる終戦記念日は正午に鎮魂の長いサイレンが流れる。その音に「朝鮮半島で終戦を迎えた時のことを思い出す」という。過去の記憶は年々薄れゆく。それでも若い人に語り継ぐことの大切さを訴えている。

(島山知房)

(おわり)

 【メモ】
 1922(大正11)年9月16日、空知管内沼田町の出身。戦後、同町で米農家をしていたが、69年に苫小牧に移住して不動産業に従事した。

週間ランキング

集計期間 09/10〜09/17

お知らせ

受付

苫小牧民報社から