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令和に伝える-戦後74年

(5)真っ赤な炎、空を染める、東京大空襲語る 苫小牧市表町・秋山勇さん(89)

2019/8/16配信

 「戦争は絶対に起こしてはならない。国際紛争の解決手段として最低な行為だ」
 8月5日、苫小牧市中心部の表町公園に隣接する旧秋山歯科医院。話が本題の戦争に及んだ途端に厳しい表情となり、強い口調で語った。

 生まれ故郷の東京で米軍による空襲を数回にわたって経験した。特に被害が甚大だった1945年3月10日の大空襲では、中学校のクラスメートを失った。

 東京都内の小学校に通っていた42年4月、自宅からふと空を眺めると、遠く南海上から内陸に向かって数機の爆撃機B―25が飛んできた。米軍の空母を発進した機体による日本本土への初めてのドーリットル空襲だった。爆撃の瞬間は見なかったが、「ブーンというプロペラ音が聞こえた。すぐに米軍の飛行機だと気付いた。本当に驚いた」。

 43年4月に都内の獨協中学校に進学したが、まともに授業が行われたのは入学後の1年間だけ。戦時下のため、援農要員として近くの農家へ雑草取りに出掛けることも多く、上級生は勤労奉仕で工場の手伝いに出ていたという。

 44年秋ごろには、東京上空を偵察するB―29の姿が増え、同年の冬から時々空襲を受けるようになった。45年春、高台にあった中学校の校舎から、B―29が近くの民家に焼夷(しょうい)弾を投下する様子をはっきりと見た。

 「こんな爆弾が上空でばらまかれ、火が付いて落ちてくる。住宅がボンボンと燃え、それはびっくりした」

 震える両手を広げながらその大きさと恐怖の思いを語った。

■    ■

 同年3月10日、在宅中に10万人以上の死傷者が出た下町を中心とする東京大空襲に遭遇した。

 「空襲が始まった瞬間はすぐに分かった。深夜、東京湾の方から銀座、新宿方面に向かって来る飛行機が見えた。ゴーゴーとエンジン音が大きく、数も多かった」

 急いで自宅そばの道路脇にある防空壕(ごう)に飛び込んだ。近所に爆弾は落ちなかったが、空は真っ赤。遠くでは住宅地が激しく燃えていた。道は避難する人たちが激しく行き交った。

 「少しでも火から遠い所へ逃げようとしていたんだね。みんな必死な様子だった」
 空襲が終わり、焼け跡を見に行くと隅田川に死体が浮いていた。けが人は数知れず、まだ燃え続けている家もあった。1カ月後に登校すると、同級生3人が大空襲で亡くなったと知らされた。驚き、悲しみに包まれた。今もその時の気持ちを忘れることはできないという。

 「彼らはまだ子どもだった。やりたいこともあっただろう。悪いことなど何もしていないのに突然命を奪われた。戦争は愚かな行為。絶対に繰り返してはいけない」

 当時の記憶を鮮明に呼び起こしながら、戦後74年がたった私たちの時代に強い思いで伝えている。

(澁谷賢利)

 【メモ】

 1930(昭和5)年7月11日、東京都京橋区(現在の中央区)生まれ。8人きょうだいの4番目。父は火災保険会社社員、母親は当時としては珍しい歯科医だった。戦後、苫小牧に移って表町で秋山歯科医院を経営した。

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