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令和に伝える-戦後74年

(4)友の死、震え止まらず 苫小牧市有珠の沢町・佐々木勝已さん(90)

2019/8/15配信

 「私たちの世代の青春は、戦争の真っただ中にあった。勉強の代わりに労働を強いられ、敗戦の無力感の中で学校生活を終えた」

 8月6日、苫小牧市有珠の沢町の自宅。ソファに腰を落としながら、終始穏やかな口調で自身の青年期を振り返った。

 1944(昭和19)年2月25日、中学生以上を軍需産業や食糧増産の要員とする学徒動員体制が強化され、それまで4カ月間だった動員期間が通年化されることが閣議決定された。

 当時は、北海道庁立苫小牧工業学校(現苫小牧工業高校)の電気科2年生。約40人の級友と共に、7月から10月初めまで札幌・定山渓の豊平川流域にある水力発電所近くで水路工事に従事した。スコップでコンクリートを練り、砂や砂利、水を運搬するなど1日10時間の重労働。食事は皿に軽く盛った程度の大豆飯だけで「みんな15~16歳だったが、空腹と暑さの中で支え合っていた」。

 11月以降は、砂川町豊沼(現在の空知管内砂川市豊沼町)で労働に当たった。近くの学生寮「忠誠寮」の6畳部屋に3人が押し込まれた生活は「日中働いて夜は寝るだけの毎日」だった。

 豊沼では、東洋高圧北海道工場(現北海道三井化学)の建設工事に携わった。大人たちから言われるまま、鉄工所でタンクに鉄のびょうを打つ仕事をし、変電所に移ってからは施設内の監視巡回作業も担当した。

 2~3人の班に分かれて昼夜交代の勤務。夜勤の時は、懐中電灯を手に翌朝8時まで施設内を巡回したり、機械に異常がないかを見て回った。電気技術者を目指していたものの「まだ若く、夜は眠かったし、闇の中の巡回は怖かった」。学生として勉強する時間はなく、常に空腹と疲労、不安の中にあった。

   ■   ■

 45年6月12日、電柱の上で高圧電線の新設工事をしていた当時17歳の級友が感電死する事故が起きた。何かの弾みで電線が揺れ、近くにあった3000ボルトの電流が流れる電線に触れてしまったという。後に仲間の代わりに作業し、事故に遭ったと知った。誰もが新設したばかりの架線が通電しているとは考えていなかった。修学旅行はもとより、ゆっくりと本を読んだりスポーツに励むことも許されず、過酷な労働を強いられた中で起きた友の死。

 「国のために尽くそうという思いはあった。でも事故の話を聞いた後は長い時間、歯の震えが止まらなかった。僕らの青春は死と隣り合わせにあることを実感した瞬間だった」

 8月、勝利を信じていた戦争は敗戦に終わった。久しぶりに学びやに戻ったが、見えない将来への不安から勉強に身が入らず46年3月、無力感の中で卒業した。厳格に管理されていた環境から、いきなり混沌(こんとん)とした社会を自力で生きていかなければならなくなった10代の若者たち。戸惑いと不安を抱えながらこれまでの時間を懸命に駆け抜けてきた。

 「あの日々を語り合える級友はわずかしかいないが、戦争を語れるのは僕らが最後の世代。どこか無気力で無関心な今の時代だからこそ、終戦の日は平和を考える機会にしてもらいたい」

(半澤孝平)

 【メモ】
 1929(昭和4)年1月5日、樺太・豊原町(現ユジノサハリンスク市)生まれ。38年、父の仕事の都合で苫小牧に移住。46年に苫小牧工業学校を卒業後は北海道電力に勤めた。

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