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令和に伝える-戦後74年

(3)国民が哀れな思いに 苫小牧市のぞみ町・村上亀太郎さん(93)

2019/8/14配信

 「74年前の夏は天皇の護衛隊である近衛師団の騎兵候補生として旭川の陸軍第七師団の部隊に配属され、二等兵の訓練を受ける日々だった」

 今月9日、一人で暮らす苫小牧市のぞみ町のアパート。古い記憶を呼び起こすように深く目を閉じた後、穏やかに語り始めた。90歳を過ぎても、毎年この時期になると「あの夏の記憶がよみがえってくる」と言う。

 1945年2月、18歳で徴兵検査を受け、4月から射撃練習や10キロほど馬を引いて歩く行軍などの訓練を重ねた。

 当時の兵隊の価値は、召集用はがきの切手代の三銭五厘ぐらいだと上官にばかにされた。馬1頭の価格が当時800円から1000円だったため、「馬の方が大事」と乗ることさえ許されなかった。

 「騎兵とは名ばかりだった」

 食事は「猫が食べるほどの少量」。わずかな米とみそ汁に漬物2切れ。たまに魚が付く程度で、毎日空腹だった。このため、訓練が始まっても力が出ず、足元がふらつけば3階級上の兵長から「靴ひもが緩かったからだ」などと理不尽な理由で毎晩殴られた。「これで戦争ができるのか」と不安の中で毎日を過ごした。

   ■   ■

 8月15日朝、厩舎(きゅうしゃ)に兵隊約120人が集められた。「正午、ラジオで玉音(天皇の声)を聴く」ということだった。ラジオにマイクを近づけ、スピーカー越しの雑音の中に声らしいものが聞こえた。全員が直立不動。何を言っているかよく聞き取ることはできなかったが、戦争が終わったことだけは理解できた。もう殴られない。誰も殺されないし、殺さなくていい。それが分かって腹の底から喜びが湧き上がるようだった。

 9月いっぱいまで軍馬の売却や軍服の処分、書類の焼却などの片付けで旭川に残った。上官に「米軍が来る。機密書類や軍人としての身元が分かる写真、日記帳まですべて燃やせ」と命じられ、あらかた焼いてしまった。当時の思い出はすべて記憶の中だ。

 その頃、米国アラスカ州のアッツ島の戦いなどがあったアリューシャン列島から戻った、上等兵による戦地でのエピソードを耳にした。「爆撃で食糧や服を載せた補給船が沈没し、前線は食料不足。兵士らはカエルやヘビ、ネズミなど何でも食べ、中には下級兵士を撃ち殺し、その肉を命綱にした人もいたと聞いた」

 戦地に行っていないので、本当の戦争の怖さは知らない。ただ、帰って来た兵士たちから一切、勇ましい話はなかった。激しい飢えと理不尽な死の恐怖があるだけだった。

 「戦争は飢えたり、いじめに遭ったり、殺されたりと国民が哀れな思いをするだけ。若い議員が戦争で北方領土を取り返すことをあおる発言をしたが、何も分かっていないと暗い気持ちになった。とにかく戦争だけはしてはいけないんだ」
(半澤孝平)

 【メモ】

 

 1926(大正15)年3月15日、十勝管内士幌町の麦農家の三男として生まれた。戦後、実家の農家を継ぐが54年に廃業。測量や企業の役員付運転手などを務め、82年に同管内芽室町から転勤で苫小牧に転居した。

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