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令和に伝える-戦後74年

(2)徴用のつらい記憶 苫小牧市拓勇東町・野土谷末松さん(91)

2019/8/13配信

 「力仕事に疲れ、腹をすかせた彼らは食べ物を探し求め、港の岸壁に付着した海藻や岩ノリ…とにかく口に含める物をなんでも探して缶に詰め、煮て食べていた」

 今月5日、苫小牧市拓勇東町の閑静な住宅地に古くから建つ一軒家。居間の押し入れからおもむろに取り出した、戦中の庶民の暮らしが描かれた複数の水彩画を手に温厚な表情を一瞬曇らせた。

 10代の頃、国の徴用で、北海道―東北間の石炭輸送を担う会社として設立された函館市の北部機帆船運航で石炭や塩などの運搬作業に従事した。作業員は韓国人や中国人が多かったが皆、真面目。

 「一緒に働くうち言葉は通じなくても気持ちは通い合っている感じがした」
 日本人には小さな弁当が支給されたが韓国人、中国人に食事が与えられるのを目にしたことは一度もない。「自分に用意された食事も少量だったため、分けてあげることもできず、ふびんに思って海で海藻を取るのを手伝ったこともあった」

   ■   ■

 浦河町出身で6人きょうだいの末っ子。長年漁師をしていたが、苫小牧沼ノ端中学校の開校を機に学校用務員に転職した。仕事にも慣れ、生活が落ち着いた頃から戦中、戦後の情景を鉛筆で描くようになった。「当時は高価だったカメラを持っている人なんて周りにはいなかった」。経験したこと、見たものを残す手段として筆を取った。

 今も水彩絵の具などで、ベニヤ板や画用紙などにこつこつ描いている。その中には戦時の記憶を伝える作品も一部に含まれている。

 徴用で従事した先には室蘭市の製鉄所もあった。大きな釜を使ったコークス製造に駆り出されたが、釜の熱さと太陽の暑さで非常に苦しい思いをしたことも忘れられない。「最近、メディアで徴用工の問題が取り上げられているが皆、相当苦労をしていた。このつらさは携わった人にしか分からない」

   ■   ■

 その後、浦河町に帰郷した際には、町民総出で浜に日本軍の上陸用舟艇を隠す壕(ごう)を作った。国民服を着た男性の指示で、防空頭巾にもんぺ姿の女性らが焼夷(しょうい)弾による米軍の空襲を想定したバケツリレーの消火訓練を行う姿もよく目にした。

 満足に勉強できる環境ではなかったが、空襲を警戒して部屋の電灯を真っ黒な布で覆う灯火管制の中でも、かすかな光で読書をした。

 「あんなつらい時代が二度とやってこないことを願って絵を描いている。今は毎日昼寝をしたり、好きなことができる時間がある。平和とはいいものだ」
(松原俊介)

 【メモ】

 1927年10月30日、浦河町生まれ。浦河尋常高等小学校を卒業後、漁師になった。65年、苫小牧沼ノ端中学校開校を機に、学校用務員に転職した。

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