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令和に伝える-戦後74年

(1)「生き残った人も不幸に」 苫小牧市勇払・廣岡桂子さん(90)

2019/8/12配信

 「今まで心にふたをして生きてきた」

 今月3日、苫小牧市内で開かれた新日本婦人の会苫小牧支部など主催の「平和のつどい」。戦争と平和について考える行事に戦時中の体験を伝える講師として登壇し、自身が16歳の時に遭遇した東京大空襲について人前で初めて語った。

 どれだけ時がたとうとも、惨劇を目の当たりにしたショックは癒えず、戦中の出来事は語らずに過ごしてきた。しかし、日韓関係の悪化や、北朝鮮による短距離弾道ミサイル発射など日本を取り巻く世界情勢が緊迫度合いを増す中、戦争の悲劇を次世代に語り継ぐことの大切さを痛感し、閉ざしていた口を開いた。

 オホーツク管内雄武町の学校を卒業した14歳の時、東京で暮らす叔母の勧めで単身上京。叔母の知人が住んでいた都内麻布の屋敷で家事手伝いをしていたが、戦況が悪化。1年足らずで戦闘機の部品を作る中目黒の工場で働くことになり、工場近くの寮に住まいを移した。

 1944(昭和19)年11月ごろから米軍による東京への攻撃が激化。夜間に受けることも多く、そのたびに飛び起きて寮の防空壕(ごう)に逃げ込む日々を送った。その中で突然、姿を消す同僚もいた。「あの子、この前の空襲で死んじゃったらしいよ」―。そんな会話を交わすたび、死が自分のすぐそばまで迫っていると感じた。

■   ■

 45年3月に入ると、米軍は人口密度が高い居住地を集中的に狙う爆弾攻撃を始めた。何度目かは覚えてはいないが、ついに中目黒も大規模な空襲に見舞われた。上空からザーザーと大雨のような音を立てて降り注ぐ焼夷(しょうい)弾。瞬く間に辺りが火の海となった。

 「逃げなきゃだめだ」

 恐怖で硬直する体を無理やり動かし、近所の高齢男性の手を引きながら火の手が上がっていない場所を目指して必死に走った。行く手を遮る炎。ごうごうと音を立てて燃え上がる家屋。耳をつんざくような人々の悲鳴。どこをどう走ったのだろう。気が付けば辛うじて火災を免れていた目黒・碑文谷公園にいた。公園にはたくさんの人が集まっていたが、一緒に逃げていたはずの男性の姿は見えなかった。真っ赤に燃えながら池に飛び込む人や力尽きて地面に倒れたまま動かない人もいたが、その光景をただ、ぼんやりと見詰めるしかできなかった。

 火が鎮まると、変わり果てたまちの様子が目に飛び込んできた。中目黒から横浜の方まで見渡せるほど辺り一帯が焼失。熱さから逃れようとしたのだろう。川には無数の遺体が浮かんでいた。ひっくり返って死んでいた馬の目に、涙が光っているのが見えた。

 終戦後、叔母の付き添いで北海道に戻ることができ、結婚して3人の子どもをもうけた。戦時中のことは思い出したくなかったため、空襲の体験は誰にも話さずに生きてきたが知人の後押しもあり、「平和のつどい」で披露することを決断。令和の時代を生きる若い世代に恒久平和への願いを託し、つらい経験と向き合いながら戦争の恐ろしさを訴えた。

 「銃を持ち、撃ち合うことだけが戦争ではない。子どもも年寄りも動物も関係なく命を奪われ、生き残った人も不幸になることが戦争の本当の姿。だから、二度と戦争を始めてはいけない」

(姉歯百合子)



 終戦から74年。苫小牧市の戦争体験者に、令和の時代に語り継ぐべき戦禍の記憶をたどってもらった。全6回。

 【メモ】
 1929年1月1日、函館市近郊で5人きょうだいの長女として出生し、幼少期をオホーツク管内雄武村(現・雄武町)で過ごした。21歳で結婚し、2男1女をもうけた。長く札幌で暮らしたが、夫の仕事の都合で約40年前に苫小牧に転居した。


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