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戦後70年 平和をつなぐ

第6部 (1)朝鮮・中国労務動員の記憶 苫小牧にもあった「たこ部屋」

2015/12/2配信

 戦時中、国内の労働力不足を補うため、朝鮮半島や中国から日本へ動員された人たちが各地の炭鉱、ダム、鉄道などの工事現場で働いた。非情で過酷な労働により、命を落とす人も少なくなかった。戦時下の苫小牧でも、鉄道複線工事の現場でつらい仕事に当たっていた様子を目にした市民がいる。

 太平洋戦争が始まる前のこと。錦岡付近の工事現場で朝鮮人などが、箱や網袋をつるした棒を2人一組で担ぎ、土砂を懸命に運んでいた場面を何度も見た。「誰もが上半身裸で、真っ黒に日焼けしていた。ちょっとよそ見しただけで、現場を指揮する人に棒でたたかれる。子供ながらに、かわいそうだと思いましたね」。錦岡の浜で生まれ育った岡田利子さん(83)=市内美沢=はそう回想する。

 休む間もなく、ひたすら働かされる人々。現在の宮前町に、戦前”たこ部屋”と呼ばれた、朝鮮人や日本人など労務者の劣悪な宿舎があったという。「宿舎から逃げ出す人もいて、朝鮮人をかくまっていないか―と監視の人たちが私の家まで探しに来たこともあった」と話す。

 馬小屋に敷いたわらの中に脱走者が潜んでいるかもしれないと、鉄の棒でわらを刺しながら「朝鮮人はいないか!」と大声を張り上げ、執拗に探し続けていたという。「近所の家では、脱走した朝鮮人をこっそり逃がしたという話を聞いた。かくまっているのが分かれば、こちらが捕まってしまう時代だから」と当時を振り返る。

 岡田さんが話した宿舎の存在を裏付ける証言をするのは、山本登さん(93)=宮前町=だ。山本さんは、その宿舎に食料の野菜を届けるために出入りしていた。宿舎は粗末な木造平屋で、脱走防止のために建物を囲う柵があり、出入り口には常に監視役の男が立っていた。玄関から建物の中に入ると、真ん中は通路で、その両側に広間があった。「たぶん、その広間で寝泊まりしていたのでは」と推測する。

 軍事的な工事に関わる情報は知ることができない時代。「どこの国の人か分からないが、宿舎にいた人は、立ったままご飯を食べ、厳しい監視の下、朝早くから夜までずっと厳しい仕事を強いられていた」と記憶をたどる。労務者の中には、劣悪な環境の中で命を失う人もいた。「国籍は不明だが、私も3人ほど遺体を運んだ。大きな茶箱に遺体を入れ、馬車で今の美原町にあった墓地に無縁仏として埋めた」と証言した。

■    ■

 1937(昭和12)年の日中戦争の開戦以降、国は石炭など軍需品の輸送強化のため、各地で鉄道工事を推し進めた。かつて王子製紙苫小牧工場に勤めていた秋山勝太郎さん(93)=花園町=は、入社した40年から出征までの3年ほどの間に、苫小牧で鉄道複線工事の現場で働く朝鮮人労働者を何人も目撃している。当時、曹洞宗中央院(元町)のすぐそばに住んでいた秋山さんは「夜に朝鮮人が隣の家に逃げてきたこともあった。誰かが通報したようで、すぐに連行されていった。当時、そういった話を一切できる状況ではなかった」と話す。

 現在の光洋町のJR室蘭線近くにもそうした宿舎があったという。佐藤由美さん(65)=光洋町=は、宿舎について親や地域の人から聞いたことがある。「鉄道の複線化と河川工事のため、朝鮮人が動員され、2棟あった宿舎にたくさんの朝鮮人がいたそうです」と話す。

 90年に道が出した報告書によると、国家総動員法(38年制定)などにより、戦時中に朝鮮から道内へ動員された人は約14万5000人。だが、犠牲者の正確な人数、労働の実態は明確になっていない。佐藤さんは言う。「労務動員について誰も語り継いでこなかった。苫小牧でも何が起きていたのか、平和を守るため、多くの市民が知るべきです」



 戦後70年企画「平和をつなぐ」第6部では、目撃証言や研究者の調査などを基に、苫小牧や近郊にもあった戦時下の朝鮮人、中国人の労務動員に光を当てる。

(4回連載)

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