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百寿たちの記憶-終戦から73年

(5)列車への空襲、九死に一生 苫小牧市住吉町・彦坂ユキさん(100)

2018/8/18配信

 「何があっても戦争は絶対にしてはいけない。不幸しか生まないのだから」。少女期や新婚生活を過ごした室蘭市や疎開先の壮瞥村(現壮瞥町)での戦時下の体験を振り返り、そう語った。

 現在の伊達市大滝区に当たる徳舜瞥(とくしゅんべつ)村で生まれ、昭和初期、親の仕事の都合で10代の頃、室蘭市に移り住んだ。この当時、日本と中国の武力衝突・満州事変が始まるなど軍国主義の時代。室蘭も戦争への備えで1935(昭和10)年、八丁平(現高平町)に日本陸軍の飛行場が整備され、まちは戦時の色に染まっていったという。

 「太平洋戦争が始まると、陸軍が室蘭防衛のため、滑走路の拡張を始めてね。その工事によって地域の銀行や郵便局、住宅がどんどん壊され、何かむなしさを感じました」と回想する。

 日本が本格的な戦争へと突き進んだ頃、室蘭で建築関係の仕事をしていた男性と結婚。子宝にも恵まれたが、日中戦争や太平洋戦争時の国民総動員の下、庶民も総力戦への備えを強いられた。主婦らは戦場の兵士へ送る慰問袋作りなど大日本婦人会の活動に駆り出され、「空襲があれば火を消すのが国民の務めだと、毎日にように防空訓練もやらされました」と思い返す。

 米は配給制で食料難に悩まされた。夜になると、空襲の標的になるのを防ぐため、「家の明かりが外に漏れないよう窓を黒い紙や布で覆いました」と灯火管制の日々。『欲しがりません、勝つまでは』。そんなスローガンの下、戦時の暮らしは戦局の悪化と共に厳しさを増した。

    ○   ○

 日本の敗戦が色濃くなった45年、室蘭のまちは悲劇に見舞われた。7月14、15日、軍需の製鉄所を構え、軍事的に重要都市とされた室蘭市が米軍の空襲や激しい艦砲射撃を受け、400人以上の犠牲者を出した。

 空襲があった時、ちょうど汽車に乗っていた。「敵機がすーっと汽車に向かって急降下して攻撃し、乗客を乗せた車両が破壊されました。私は運良く別の車両だったので助かりました」。まさに九死に一生を得た。

 次の攻撃を恐れる市民の間から「子どもがいる家庭は早く疎開を」との声が上がり、自身も「こんな所にいられない」と幼子を連れて壮瞥村へ。警報が鳴るたび、幼子と一緒にささやぶに身を隠すなど恐怖と戦い、やがて終戦を迎えた。

 戦争が終わった後も疎開先の壮瞥で暮らした。しかし、生活物資の困窮は続き、戦中と同様、食料難に苦しめられた。「農家を訪ねてもお金では野菜も売ってくれないため、着物などを持ち込み、物々交換でようやく手に入れる。そんな時代でした」

 知人から米を譲ってもらい、幼子を背負って汽車で家へ持ち帰る時も大変だった。戦後の混乱期も続いた配給以外で取引された米は、『闇米』として厳しく取り締まられるからだ。「駅など人が多いところで米が見つかってしまっては確実に取られてしまう。米を風呂敷で包んで腰に巻き、背負っていた子どもの下に忍ばせて何とか持ち帰りました」と振り返る。

 子育てや生活に追われながらも戦後を強く生き抜き、50歳の時に苫小牧へ。民謡を楽しんで穏やかに暮らし、今年100歳を迎えた。

 「戦時中は近所の男たちが次々に兵隊に取られ、鉄砲玉となって散っていった。もう二度とあのような時は来てほしくないですね」。命の危険にもさらされた戦時の体験者の言葉は重い。

=おわり=

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