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百寿たちの記憶-終戦から73年

(3)防空演習でバケツリレー 苫小牧市青葉町・後藤幸さん(101)

2018/8/16配信

 「食べる物に毎日、困るような生活だった。戦争なんて絶対にするもんじゃないね」。食料など物資の乏しい生活に苦労し、空襲に脅えた戦時の暮らしを思い返し、しみじみと話した。

 1917(大正6)年、後志管内岩内町で生まれた。道庁勤務の父の転勤で、樺太豊原市(現ユジノサハリンスク)や小樽市、札幌市で過ごした。

 太平洋戦争が始まった41年12月、結婚したばかりの夫の喜六さん(故人)とその両親の4人で札幌で暮らしていた。当時24歳だった。

 総力戦に備えた国民総動員の時代。自宅近くに軍需工場の寮があり、そこに住む女性工員と日々、空襲を想定した消火訓練のバケツリレーを繰り返した。住民が造った防空壕(ごう)に逃げ込む訓練も行った。

 戦争も末期になると、米軍の本土空襲が激しさを増した。北海道も攻撃されるかもしれない―。そんな不安が常につきまとった。

 実際に敵機が飛来したかどうか、今となっては分からないが、「空襲警報~」という男性の声がどこからともなく聞こえてくる夜もあった。そんな時は、敵機に狙われないよう部屋を真っ暗にした。45年7月、米軍がついに北海道を空襲。爆弾投下や機銃掃射で各地を攻撃し、2000人以上の道民が犠牲になる悲劇が起きた。その翌月、一家で名寄町(現名寄市)へ疎開した。

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 薬剤師だった夫は国鉄名寄保線区内にある鉄道診療所で働くことになり、家族全員で国鉄宿舎で暮らし始めた。

 宿舎には電気がなく、夜はカーバイド(炭化カルシウム)ランプの火をともして過ごした。食料は配給制。「コーリャン(トウモロコシ)は固くて食べられたものではなかった」と当時を思い出す。食料不足を補うため、空き地でジャガイモなどの野菜を育てた。「近くの農家に背広や着物などを持って出掛け、物々交換で食べ物を分けてもらったこともあった」と言う。

 疎開してから約2週間後、昭和天皇がラジオの玉音放送で戦争の終結を告げた。「家には電気がないので、どこか大きな家に行ってラジオを聞いたのだと思う」と記憶をたどる。ラジオの前には保線区の職員など15人ほどが集まっていた。放送内容はよく聞き取れなかったが、「周りの人の悲しそうな表情を見て、戦争に負けたらしいというのは分かった」と回想する。

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 戦争がようやく終わったものの、それですべてが良くなるわけではなかった。戦後の混乱期もしばらく物資配給が続き、食料難に苦しめられた。ジャガイモなど米の代用食で家族の食事を用意し、配給されたざらめ糖を使って煎餅を作り、空腹をしのいだこともあった。「ぜいたくなんてできなかったし、何の楽しみもなかった。とにかく食べていくのに一苦労。戦争が終わっても、しばらく気分は晴れなかった」と戦中戦後を思い返し、やっと豊かになってきたと実感したのは東京五輪が開催された64年以降だったという。

 戦後に長男を授かり、国鉄の診療所で働く夫の転勤で恵庭市や釧路市などで暮らした。

 2007年に夫と共に苫小牧市へ移り住み、現在、青葉町の高齢者施設で穏やかな日々を送る。100歳を超えた今も、あの多くの犠牲を払った戦争時代の記憶は鮮明。「もう絶対にいや」と、当時を思い起こしながら繰り返し口にした。

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