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百寿たちの記憶-終戦から73年

(2)日中戦争で前線部隊 苫小牧市旭町・茶木正一さん(101)

2018/8/15配信

 「(銃弾から)身を守るため、目の前の草さえも大切な存在に感じたほどでした」。2009年8月、本紙社会面で連載した企画「64年前の夏 君は玉音放送を聞いたか」で、戦場の壮絶な記憶を語ってくれた。当時92歳。あれから9年が過ぎ、もう一度話を聞くため、101歳になった茶木さんの自宅を再び訪ねた。

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 厚真村(現厚真町)の農家に生まれ、日中戦争が勃発した1937(昭和12)年、20歳の時に苫小牧東高等尋常小学校(現苫小牧東小)で徴兵検査を受けた後、“赤紙”と呼ばれた召集令状が届いた。翌年の38年1月、陸軍の札幌歩兵第25連隊機関銃中隊に入隊。1カ月余り後、室蘭港から海路で中国大陸へ向かった。

 「兵隊になり、死ぬものだと思っていた。それが当たり前の時代だった」。当時の心境をそう振り返った。

 軍隊生活は厳しかった。上官による鉄拳制裁は当たり前の日常だったという。

 所属部隊は日中戦争の「徐州作戦」に加わった。同作戦は「徐州会戦」とも呼ばれる、中国・徐州方面の中国軍を包囲攻撃する日本陸軍の大作戦。38年4月から始まり、6月まで続いた。

 激戦だった。銃弾が飛び交う中で、味方も敵も次々と命を落としていく地獄絵図を目の当たりした。5月の戦闘で左胸を撃たれ、現地の陸軍病院に運ばれた。すぐに日本へ送還され、病院で治療を受けた。駆け付けた家族は「駄目かもしれない…」と思ったほどの深刻な状況。しかし、命は救われた。今も体に弾丸の破片が残っている。

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 戦地で負傷したきずの治療を終え、40年にようやく退院。汽車の機関士になろうと学校に通い始めるが、負傷した所が悪化し、再び療養を余儀なくされた。

 日本は41年12月に太平洋戦争へ突入。43年、2度目の召集令状が届き、千歳航空隊に入隊したものの、すぐに除隊に。44年1月から苫小牧工業学校(現苫小牧工業高)で教鞭を執り、そのまま終戦を迎えた。

 戦後も苫小牧工業高の機械科で教壇に立ち続け、53年に美津子さん(2010年に死去)と結婚、2人の息子を育て上げた。あの戦争時代の悲惨な出来事は長く家族にも語らなかった。長男の秀明さん(64)は「80歳ごろになって父と酒を一緒に飲んでいる時、ようやくぽつりと話すようになった」と言う。

 100歳を超えた今、戦時の記憶が揺らぐところもあるが、「軍馬の扱い方が上手だと上官に褒められたな。機関銃を馬に乗せて運んだもんだよ」と、記者の聞き取りにそう何度も口にした。そばにいた秀明さんが補足するように言った。「重い機関銃を運べる馬の方が、人よりも大事にされていた時代だったみたいですね」

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 凄惨な戦場、それは今も強烈に脳裏に焼き付いている。決して消えることにない戦時の記憶だ。敵軍の弾丸に当たって動けなくなり、水を求めていると、仲間の兵士が助けてくれた―。この時の様子を回想しながら、言葉を詰まらせた。

 戦後73年目の夏。平和を願う時がまたやって来た。地獄を見たからこそ、その思いはことさら強い。

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