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百寿たちの記憶-終戦から73年

(1)苫小牧空襲を体験 苫小牧市日新町・小川ハルさん(100)

2018/8/14配信

 この子たちの命を守りたい―。そんな必死の思いで2人の幼子と共に苫小牧駅から厚真村(現厚真町)へ向かう汽車に飛び乗った。

 「ついに苫小牧にも米軍が来てしまったと、怖くて怖くてね。とても家にいられなかった」。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月。苫小牧の街が米軍の空襲に遭った後、また襲って来るかもしれないと、おびえながら実家へ疎開した73年前のあの夏の出来事を、100歳を迎えた今も鮮明に記憶している。

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 18(大正7)年2月、厚真村幌内で10人きょうだいの長女として生まれた。実家は農業を営み、17歳ごろに近隣の農家で働き始めた。23歳の時、王子製紙苫小牧工場に勤めていた尚敏さんと結婚。現在の王子町にあった社宅に居を構えた。

 日本が泥沼の太平洋戦争に突入した翌年の42年に長男を出産。2年後には長女が誕生した。子宝に恵まれたものの、戦時下の暮らしは厳しかった。戦火が激しくなるにつれ、乏しくなる生活物資。配給によって手に入れたほんの少しの食料品だけでは、家族の食事も賄いきれなかった。

 厚真の実家で育てたソバの実をもらって、飢えをしのいだこともある。「生きるのに必死だった時代。つらいとか、悲しいとか、そんなこと思う暇もなかったね」

 日常の食べ物には不自由したが、台所にしまって置いた貴重な砂糖を煮て水あめにし、子どもたちに食べさせたことも。うれしそうに味わう姿が忘れられないという。

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 45年に入ると、戦況はいよいよ激化していった。国内のあちこちで空襲が起き、まちが焼かれ、人々が命を奪われた。「米軍が南の方からどんどんと北へ攻め上がっているという話が伝わってきたけど、どうしようもなかった」。不安な日々の中、ついに7月14、15日、太平洋沖に艦船を展開した米軍の艦載機が北海道を攻撃。苫小牧にも機銃掃射や爆弾投下の空襲を仕掛け、漁師らが犠牲となった。さらに同月31日にも苫小牧沖から潜水艦が市街地を砲撃。戦争の恐ろしさを目の当たりにした。

 不幸中の幸いで、家族も家も被害は免れた。しかし、再び苫小牧が米軍の標的となるのでは―と考えると、いても立ってもいられなくなった。軍需で工場勤務の夫を残し、1歳の子を背負い、3歳の子の手を引きながら厚真の実家へ避難した。事情があっても、嫁いだ娘が実家に戻ることを良しとされていなかった時代。それでも両親は優しく受け入れてくれた。

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 間もなくして戦争が終結。しかし、終わったからといって、すぐに暮らしが安定することはなく、高丘の山林での草刈り仕事や豆腐屋へ働きに出て混乱期の家計を支えた。

 子どもたちを育てながら戦後を強く生き、「ようやく落ち着いてゆっくりできるようになったのは、孫が大きくなってからだったね」

 足にけがをし、介護も必要になったため、今年春、日新町の自宅からしらかば町の高齢者施設へ移り、暮らし始めた。穏やかな日々を送りながらも、終戦記念日が近づいて思い出されるのは、空襲の恐怖で実家へ疎開したあの日の事。「戦争は絶対に駄目。今の若いお母さんたちに、あのような思いをさせてはいけない」。ベッドの上で何度もそう口にした。



 戦争の終結から73年。戦時を生き抜き、百寿を迎えた苫小牧の人たちを訪ね、悲劇の時代の記憶に耳を傾けた。5回連載。

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