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開港50年 苫小牧港半世紀の歩み

第1部・海の玄関 (6)漁港区

2013/1/11配信

 けあらしが漂う早朝の”ハマ”に冬ホッキ漁の漁船が戻ってきた。朝日を背に僚船も続々と帰港し、岸壁がにわかに活気づく。ゴロリとした大きなホッキ貝が入った箱を積み上げ、白い息を吐きながら漁師が言った。「きょう(の水揚げ量)はいつも通り。まあまあだわ」

 苫小牧港・西港の水路入り口に隣接する漁港区は西港開港直後から整備が始まり、1966年に一部が完成。2年後の68年から全面的に利用できるようになった。

 「漁師は本当に漁港を欲しがった。作業が大変だったんだから」

 元苫小牧漁業協同組合長の山田正儀さん(87)がつぶやく。漁港区が整備されていなかった時代、漁師の苦労は並大抵ではなかった。岸壁がないから、馬と漁船を鋼鉄のワイヤで結び、いちいち砂浜に引き揚げていた。時間はかかるし、人数もいる。大けがをする人もいた。

 山田さんは築港に全面的に協力した。「もともと漁港を併設する計画があったんだから、西港の建設工事には協力したよ。港湾事務所がケーソン(岸壁を構成するコンクリート製の箱)を沖に浮かべていたんだけど、夜中にしけで流されたことがあってね。船を出して助けたんだ」と懐かしそうに振り返る。

 漁港区整備に伴い、浜町にあった卸売市場が66年には汐見町に移転。市内各地に点在していた漁師も続々と移住し、一帯にハマの街が形成された。

 卸売市場を運営するマルトマ苫小牧卸売の加藤光隆常務(62)は「浜町にあった市場は今と違って小さかった。前浜で揚がった魚はリヤカーかトラックで運んでいた」と言う。水産物は競りに掛けられ、本州に流通する。水揚げと流通の拠点が一体化した機能的な漁港区に、加藤常務は「便利になったのではないでしょうか」と話した。

 待望の漁港区は完成したが、一方で苫小牧の漁業は開発行政に翻弄(ほんろう)される歴史の連続だった。例えば東港の建設工事だ。沖合5千メートルまで続く広大な漁場が失われることになり、胆振・日高地方の漁協を巻き込む漁業補償問題に発展した。結局、70億円近い補償金で決着。山田さんは「苦渋の決断だった」と胸の内を明かした。

 さらに千歳川放水路問題が浮上。洪水を防ぐため、増水した千歳川の水を太平洋に流す計画だった。泥流が放流されれば、漁場への影響は明らかだ。組合長だった山田さんたちは強硬に反対し、やがて計画は白紙に戻された。

 放水路問題に区切りが付き、山田さんは99年に組合長を勇退。漁船からおかに上がった。「うちは3代90年間続いたが、漁師は俺で終わり。まあ、いろいろあったな」。お茶を飲みながら、そうつぶやいた。

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