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沼ノ端に2つの飛行場
米軍上陸に備え稔部隊駐留

苫小牧市沼ノ端 工藤 裕司さん(71)

「たぶんこの辺り」。2つ目の飛行場があったと思われる平地に立つ工藤裕司さん
 現在は、工場地帯や住宅地となっている苫小牧市沼ノ端。戦時中はここに、飛行場があった。1つは道道上厚真苫小牧線沿いにあるホームセンター南側の近辺。建設が始まったのは1943年(昭和18年)だった。「目でみる沼ノ端のあゆみ」(同編集委員会発刊)によると、当時のこの地域はかん木(低木)の林と草原が広がる土地だった。飛行場造りは樹木を切り倒し、根を掘り起こして地表面をならし、学校のグラウンド造成のように行われた。長さ千数百メートルの滑走路には、粘土を5センチほどの厚さに敷いてローラーでてん圧。ローラーは人力で引いた。苫小牧の中学や工業学校、沼ノ端国民学校高等科の生徒たちも動員された。
 燃料店社長の工藤さんは、当時からJR沼ノ端駅付近に居住していた。実家は運送店を営んでおり、家屋は広かった。国策でその一部屋に寝泊まりしていた人たちがいた。建設に伴い、沼ノ端入りしていた測量や工事の技術者らだった。「技術者は当時のいわゆるインテリ。一緒に遊んでくれたり、いろいろ教えてくれたり、みやげに―と本を買ってきてくれたこともあった」という。
 さらに、43年から翌年にかけて同市勇払につながる現在の道道苫小牧環状線東側に、コンクリート造り1500メートルのT字型2本の滑走路を持つ本格的な飛行場の建設も始まった。
 上空から見れば飛行機に見えるベニヤ板のダミーもあった飛行場だが、実際に使われていた。最初に建設された飛行場から陸軍の「隼(はやぶさ)」が飛び立つ姿を何度か見ているという。
 44年8月、苫小牧の海岸が米軍の上陸地点となる可能性が高いという予想のもと、第77師団(通称稔部隊)が勇払付近に駐留した。海岸の要所にコンクリート製のトーチカを築き、壕(ごう)を掘った。実際、45年7月に沼ノ端地区は初の空襲も受けている。小さな地域になぜ2つも飛行場が建設されたのか―は不明だが、上陸に備えて互いに補完的役割を果たすものだったのかもしれない。
 幼かったため、戦争末期や飛行場建設の記憶はあまりない。ただ、沼ノ端駅の北側には韓国、朝鮮籍と思われる外国人が住んでいた何棟かのバラックがあった。この人たちがいつ沼ノ端に来て、いついなくなったのか―は定かではない。だが「飛行場建設のためにいたとしか考えられない。相当数がいた」。
 バラックのトイレに扉はなく、代わりにむしろが掛けられていただけだった。あの時代のアジアの外国人が使っていた施設。環境はあまり良くなかったことが予想される。今で言うトイレットペーパーもなかったのだろう。むしろの短い横編がペーパー代わりに使われてどんどん引き抜かれ、長い縦編だけが残った―そんな少し寂しい思い出がある。
 製紙工場の土地だった最初の飛行場跡には戦後、住宅が建った。2つ目の飛行場のコンクリートは「はがされて何かに使われたらしい」とも聞くが、詳しいことは分からない。建設にたくさんの人の労力が費やされた飛行場を知る人も、今は少なくなった―。
 

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苫小牧民報社