企画・特集

とまみんが見た50年

「着工前夜」

(2000年 11/9)

「西防波堤」の基準となった旧日高線の跡

 苫小牧港着工前年の1950年は、着工の成否をめぐって動きが慌ただしい。文字通り「前夜」の緊迫感がある。

 その前年の49年、全国の港湾の開発や利用、管理のための調査対象に「苫小牧港」も指定された。港湾統計法による。港があったわけではないが、1935年に着工したまま波に洗われていた試験突堤が「港湾」とみなされ、調査対象とされた。今井寅之助以来の人々の思いは戦後につながり、法律の上でも明記されたことになる。50年度、調査費30万円が国の予算としてつく。

 「南北海」の報ずるところでは、「前夜」の課題は、調査費がついたことをきっかけに一気に着工へもっていけるか否か、とすれば建設地をどこにするか、さらに予算獲得のことを考え合わせて港の性格をどんなものにするか-という辺りに絞られる。

 予算を持つ国、道の動向について知るには、歯がゆいものがあった。田中正太郎市長らは、上京しての陳情を繰り返すが、「南北海」へはその陳情団や篠田弘作代議士-西田信一道議のルートで情報が入ってきた(篠田は後に自治大臣、西田は後に参院議員・国務大臣、ともに苫小牧市名誉市民)。

 7月19日、西田から「南北海」への書簡。「港湾試験工事は既定方針通り試験工事を急速実施することに決定した。予算については篠田代議士とともに知事、池田土木部長に交渉の結果、道費から225万円、市費から225万円。国費から30万円を支出することにして大体了解、成立する見込み」

 この年の1月、道と苫小牧市は450万円を折半で出し合い、とりあえず試験工事として防波堤を突き出してしまおうという協議を整えた。しかし、不安はあった。

 「これでいよいよ懸案の漁港築設に第一歩を踏み出すことになったが、この450円は起債に財源を求めているので、市理事者は…」(50年4月16日付「南北海」)。財源は借金なので道がぐずぐず言うかもしれない。だから市で立て替えて早く着工してしまい、あとで道と折衝する|というのだ。不安は的中し、その後、道は「100万円しか出せない」と言ってくる。それが7月道議会で「既定方針通り」と転々とする。先の西田の書簡はそれに関するやり取りである。

 道議会の直前、試験工事早期着工を求める市・苫小牧港築設期成同盟会と、次年度国家予算がつかなければ試験工事も無駄に終わるとして着工に慎重な土木現業所(道)とのひざ詰めの交渉も行われている。

 その港をどこに造るかは前年来問題となっていた。漁業振興にとっては市街地近くの方が便利だったが、工業地帯開発のことを考えると東寄りの広い後背地を持つ場所が良かった。当初は苫小牧駅前通りの突き当たりの浜付近が構想されたが、より東へという声も強く、論議が起こった。

 結論は「両案の中間でいく。苫漁港の位置決定へ-日高線カーブを西側防波堤とする。工業港に拡大しなければならないので…」(3月3日付「南北海」)。

 また、港の規模を大きくできるが地元負担割合が多い「港湾法」の適用を受けるか、規模は小さいが地元負担割合が少ない「漁港法」の適用を受けるかの論議も起こり、結論は「港湾法で築設推進」(6月17日付「南北海」)。

 これらの結果、市費と道費による試験工事は50年7月、着工される。次は、51年度国家予算に工事費がつくか否か。「昭和26年度国家予算の編成にあたり苫小牧港湾築設費をどうしても計上してもらおうと田中市長、西田道議らが上京。帰苫の田中市長は『大蔵省査定内示案からは削除されており、復活予算として期待されているが楽観は許されない』と述べた(要約)」(9月16日付「南北海」)。

 10月5日、東京に居残っていた西田から「南北海」あて入電。「苫小牧港修築確実となった。安心あれ。市民各位によろしく。われ、7日帰る。西田」

 苫小牧港新規事業分として51年度国家予算に400万円がつく。着工は翌51年8月18日、快晴の日であった。(文中敬称略)