企画・特集

「レンジャー1期生の日記」 支笏洞爺国立公園60周年

(6)支笏湖畔にも深い傷残した台風

(2009年 7/18)

枯れ木が不思議な光景を醸す美笛の湖岸=1954年10月

 ■権威の問題
  湖畔地区の建物を移転させる基本計画は、測量を行い、道庁との協議でほぼ了承されました。道職員にも参加してもらい地元の業者を集めて協議会を開きました。あまり譲歩していたら切りがないので、かなり強い調子で迫って、だいたい原案通り承知してもらいました。

 わたしだけでは、聞こうとうもしなかったでしょう。おぜん立てを行い厚生省なり、道庁なりの名前を利用すれば承知してくれました。要は権威の問題だったのでしょう。

 ■洞爺丸台風
  9月に会議で東京へ出張し、その帰途、青函連絡船「大雪丸」で青森を出港しました。津軽海峡は波が高く、4000トンの船中で立っていられないほど揺れました。大幅に遅れて着いた函館では岸壁に横付けされていた洞爺丸を見ました。

 夕方の汽車で函館を出て札幌に向かう途中、風が強くなり列車が止まってしまい、一晩足止めされました。函館港で目前に見た「洞爺丸」の遭難を知ったのは翌朝。小樽で見た新聞で、遭難者の多さに驚きました。

 支笏湖では、樽前山周辺のエゾマツ、トドマツの原生林に膨大な風倒木が生じ、湖畔地区でも倒木や枝折れなどで道路や園地がふさがれました。

 早急な除去が必要でしたが、事務所には予算も道具もありませんでした。そこで、緊急措置として倒木の売却代金を除去作業の手間賃に充てて、園地内の整理をしました。いいアイデアだと思ったのですが、国有財産の無断処分ということで、大目玉をくらいました。

 ■紋別岳
  暇ができると、近くの紋別岳(866メートル)によく登りました。月に2~3回は登ったと思います。当時の道はコンクリートではなく、土みたいな砂利みたいな感じでした。

 頂上から日本海、太平洋がよく見えます。札幌を見ると、窓の光がチラチラと光って非常に懐かしかった。一番気に入っていたのは頂上からよりも中腹からの湖や山々の眺めで、天国的なところがあるんです。

 退職後、支笏湖に行くたびに紋別岳に登り写真を撮ったり、スケッチをしました。当時は鉛筆書きだったので、今度行ければ色を付けようと思ってます。あの程度の山でも、今のわたしの年齢では厳しいものがあります。今度登るのが、登り納めかもしれません。

 ■レンジャー辞任
  わたしがレンジャーを辞めたのは(1954年3月)、いくつかの理由がありますが、都会に育って自然にあこがれてレンジャーになり、支笏湖という原始的な景観の中で仕事も生活もして希望がかなえられたと思っていましたが、実は自然の中で生活するということは、かえって人間との接触が濃密になるということでした。後輩との四六時中の共同自炊生活も一因だったと思います。

 また母が亡くなるなど家庭の事情もありましたし、先行きの見えない身分の問題もありました。

 若いわたしには自然の中での生活を経て芸術、文化、社会などもっと広い分野にも興味がわき、挑戦したいと思いました。後に幸運にも携わるようになった「観光行政」はそのような分野でした。

 しかし長い都会生活の中で支笏湖は、いつもふるさとのように懐かしくやや苦くもある思い出の地です。(宮林廣さん)(おわり)

 この企画は先田次雄が担当しました。