企画・特集

「レンジャー1期生の日記」 支笏洞爺国立公園60周年

(4)湖岸の駐車場で悪戦苦闘

(2009年 7/16)

当時は登ることができた樽前山溶岩円頂丘から風不死岳を望む=1953年夏

 ■冬は東京で研修
  9月に思わぬ臨時収入がありました。8月31日現在の北海道勤務者に月給の2倍以上の石炭手当が支給されたのです。ところが11月に研修のために東京に帰るよう突然の指示があり、結局、この手当は丸もうけでした。

 東京では翌年の3月まで、自宅から霞ヶ関の厚生省(当時)に通って研修を受けました。研修と言っても前年同様体系的なカリキュラムがあるわけでもなく、手の空いている人の散発的な講義がある程度。あとは雑用ばかりで、いつも時間を持て余していました。

 ■2人体制
  2年目(1954年)はレンジャーの2期生14人が採用され、支笏湖は1人増員されて2人体制になりました。

 後輩が支笏湖に赴任したのは2カ月間の研修を終えた6月でした。空いていた小学校の分校の教職員住宅を借り、交代で自炊をしました。

 既に湖畔集団施設地区が林野庁から移管(54年4月)されていましたが、その間、正式な命令も通達もありませんでした。

 ある日、後輩が道庁で集団施設地区の管理が怠慢だという話を聞いてきました。

 それじゃあ地主として何かやらねばと、まず手をつけたのは湖畔の駐車場です。特に問題になったのは米軍の兵士たちでした。

 ■バス停
  当時、湖畔地区の入り口から入ると広場があって、その先が園地になっていました。そこから急な坂道でバス停のある湖岸に下りるようになっていました。

 やって来た車は、上の広場に駐車しなければいけなかったのですが、米軍のジープ、大型車がわが物顔で湖岸まで下りていました。

 問題は、車を上の駐車場にいかに止めるかでした。そのためには、駐車場の入り口辺りでストップさせて、そこから歩いて湖岸に下りるようにしようと考えました。

 まず、日曜日には車に止まってもらおうと、2人で環境庁の腕章をして、進入禁止の標識を立て、やってきた全車両をいったんストップさせ、駐車場に誘導しました。

 その日は、それで一応言うことを聞いてくれたのですが、翌日以降に中央バスと苫小牧市営バスからさんざん苦情が来ました。

 バスの営業は公的で、乗降場(湖岸のバス停)は規則で決まっている、それを勝手に停止させるのはけしからんという訳です。だんだんと波紋が広がって、こっちも突っ張っていましたが、そのうち問題が道庁にまで上がってしまいました。その後、道議会議員が仲介に入って妥協し、待合所が出来次第バス停は駐車場に移すことになりました。結果的に成功でした。

 ■オーマイパパ
  考えてみると、この問題はまず道庁なり警察なりに相談しなければいけなかったのでしょう。若気の至りというのかな、今になって思うとひどいことをしたことになりますね。世間知らずでした。

 そのほか、客集めのためにやたら大きな音を立てるのをやめさせようとしたことですね。結局、音を小さくしろと言っても、お客が来ない、生活権の侵害だと言い出して、効果はありませんでした。

 事務所に座っていると、方々から音楽が聴こえてきて、当時の流行歌が今でも耳についているくらいです。「オーマイパパ」などは、いつも聴かされて好きになってしまいました。(宮林廣さん)