企画・特集

「レンジャー1期生の日記」 支笏洞爺国立公園60周年

(1)世の中はまだ戦後の混乱期

(2009年 7/13)

宮林さんが赴任した1953年夏の支笏湖湖畔

 支笏洞爺国立公園が道内3番目の国立公園として指定されたのは1949年5月16日。戦後の混乱が続く中、所管する厚生省(当時)には管理する体制もないままの、いわば見切り発車的な指定だった。ようやく国立公園管理員(現・自然保護官=レンジャー)の募集が行われのは53年になってからのこと。その第1期生として採用され支笏湖地区に配置された宮林廣さん(78)=神奈川県相模原市=に、レンジャーとして過ごした2年間を語ってもらった。

 

 ■希望は北海道
  千葉大の園芸学部造園学科を卒業し53年の4月6日、厚生省国立公園部に国立公園管理員として採用されました。

 造園科というのは自然を相手にする学科で、就職先は県や市の公園関係、国立公園しかなかった。たまたま卒業する年に厚生省がレンジャー制度というのを始めて、第1期の募集があったので応募したんです。

 東京の下町・向島の出身で、自然にあこがれて飛び出したかった。国立公園はたくさんあるけど、最も原始的、自然に近いのが北海道だと思ったので、面接では、ぜひとも北海道に行きたいと希望しました。

 ■身分は定員外
  採用はされましたが、身分は定員外。日当390円の日雇い労務者でした。レンジャー制度自体がアメリカのパークレンジャー制度を参考に実験的に始まったもので、組織としても、予算的にも何もなかった。また、当時は定員増加がやかましかったので、正式ではなく日雇いの身分でしか発足できなかったのです。

 実績がつけば日雇いが常勤になり、技官になれるだろうと見込み発車でした。制度は後からついてくるだろうということでしたね。

 そんな身分でも望んだ仕事だったので、まあまあだと思いました。でも社会保障がありませんでした。慢性盲腸が時々痛んでいたので、支笏湖で痛んだらどうしようか、という心配がありました。

 一緒に採用された1期生は6人。支笏湖のほか十和田、日光、富士箱根、中部山岳、大山の各国立公園担当で、千葉大、東京農大がそれぞれ3人ずつでした。

 わたしが担当する支笏洞爺の支笏湖地区については、そんな場所があること自体初めて知ったし、実は名前からして読めませんでした。

 支笏湖への派遣は、集団施設地区(商店街や旅館などが集まった地区)の土地を林野庁から払い下げを受けることになり、レンジャーの常駐が必要になったためでした。

 ■神風戦術

 採用されてから1カ月間の研修がありました。当時はレンジャー制度ができたばかりで管理規則などが何もない状態でした。したがって研修といっても何もなく、管理課や計画課で事務の見習いをし、時々事務官や技官の説明を受ける程度でした。

 組織や国立公園の現状が分かるにつれて、機構、予算、定員など官庁としての現状も見通しもなく、ろくに情報もないへき地へ、よくも放り出してくれれるものだとあきれました。

 まさに上層部は安全地帯にいて、若者の精神力をあてにする神風戦術でしたね。

 北海道に出発したのは5月4日でした。

(記事中の写真は宮林さん提供。6回連載します)

宮林 廣さん

 1953年千葉大学園芸学部造園学科を卒業後、厚生省国立公園部に国立公園管理員として採用される。55年に退職し、総理府に移籍。官房審議室観光担当などを経て、87年に日本学術会議事務局会員推薦管理事務室長を最後に退官。その後助成財団資料センター事務局長などを歴任し88年にリタイア。東京都出身。78歳。

 宮林さんは、古い日記や写真などを整理しブログで公開している。http://web.me.com/miya16.061