企画・特集

君は玉音放送を聞いたか

(10)苫小牧市旭町 茶木正一さん(92)

(2009年 8/21)

銃弾飛び交う戦場は地獄

戦時中の古い写真を見る茶木さん

 昨年夏、北京五輪聖火リレー妨害行為に対する中国各地の抗議デモの報道に触れた時、思い掛けず、あの時代の記憶がよみがえった。

 「河南省、徐州、山東省…」。抗議デモが起きた地域の名が報道で伝えられると、自分もかかわった日中戦争を思い出した。

 厚真町生まれ。1937年冬、召集令状の赤紙を受け取った。苫小牧東小学校で検査を受けて出征。日本陸軍歩兵第25連隊の所属となり、中国へ赴いたものの、体調を崩して1年ほどで帰国した。

 その後、蒸気機関車の機関士になる夢を抱いて学校に通い始めたが、再び令状が届いて2度目の出征。機関士はあきらめざるを得なかった。

 厳しい軍隊生活。規律を保つためと、上官による鉄拳制裁は当たり前だった。銃弾が飛び交う戦場。仲間が死んでいく惨状も見た。

 「(銃弾から)身を守るため、目の前の草さえも大切な存在に感じたほどでした」。敵も味方も次々に命を落とす、地獄のような戦場。極限の緊張状態に陥った。銃弾で胸を負傷し、陸軍病院に運ばれた。

 戦禍の記憶は、今もうまく言葉にできない。思い返すと、胸が詰まり、目頭も熱くなる。

 戦争末期の44年、知人の紹介で苫小牧工業学校(現苫小牧工業高校)の教師になった。そして終戦。日本が負けたことを玉音放送で告げられても、にわかに信じられなかった。

中国で撮影された戦場写真=茶木さん所有

 戦後も同校の機械科教師を続け、63歳まで教壇に立った。「生徒に手を挙げたことは1度もありません」。悲惨な戦時中の体験から、暴力へ強い嫌悪感を抱き、教室の子供たちも決して殴らないとを心に決めた。

 苫小牧工業高の旧校舎があった苫小牧市文化公園=苫小牧市末広町=。機械科棟の近くに立っていたエゾヤマザクラは、今も市立中央図書館前にある。

 今春、そのサクラについて語る機会があった。苫小牧屈指の立派な古木の由来を記録したいと、樹木医から依頼されたからだ。昔を振り返る中で戦時中のことも少しだけ話した。人前で戦争体験を口にしたのは、この時が初めてだった。

 決して忘れ去ることのできない記憶。しかし、生徒や同僚教師、家族にさえも、あの時代のことを話さずに生きてきた。あまりにも壮絶な出来事だった故に―。

 暗黒をくぐり抜けたからこそ、より大切に思う平和。けれど、地球のどこかで惨劇が続く。戦争のない世界。いつか、そんな日が訪れることを願っている。(おわり)

 ※この企画は下川原毅、河村俊之、村上辰徳、姉歯百合子、高田晴朗が担当しました。