企画・特集

君は玉音放送を聞いたか

(9)苫小牧市沼ノ端 千葉美和清さん(85)

(2009年 8/20)

悲劇の逃避行 子捨てを目撃

「樺太での出来事が今も忘れられない」と話す千葉さん

 その女の子のことが今でも忘れられない。敗戦を告げる玉音放送が樺太(現サハリン)にも流れた日の夜。終戦間際、宣戦布告したソ連軍の侵攻を恐れ、町民と逃げる途中に悲劇は起きた。

 南樺太にあった炭鉱まちの塔路町。町長を先頭に約200人の集団避難に、2人の妹と共に加わった。日本が敗戦を宣言しても、樺太ではまだ戦闘が続いていた。ソ連軍の空襲や上陸に脅え、玉音放送が終わって間もなく、数百キロ先にある樺太南部の都市・豊原市を目指し出発した。

 目立たぬよう、闇夜に紛れた逃避行。着替えなどを詰め込んだリュックを背負い、明かりもない真っ暗な山道をひたすら南へ歩いた。列からはぐれないために、体に縄を巻き付けて、前を歩く人とつないだ。

 避難の途中、信じられない場面に出くわした。足手まといになったのか、若い母親が5歳ぐらいの女の子を道端に置き去りにした。「ここで待っているんだよ」と言い残して。捨てられた子に死が待っていることは、誰もが分かっていた。

 子捨ては、この母親だけでなかった。4人の子を抱えた別の家族も、幼子を1人だけ置き去りにしようとしていた。見かねて、その家族に言った。「わたしが連れて行きますから」。妹にリュックを預け、その幼子を背負ってまた山道を歩きだした。

 当時、塔路町の病院の看護師長だった。医療に携わる者として、命の尊さは誰よりも理解していた。だからこそ、子供を助けたかった。しかし、豊原までは気が遠くなるほどの道のり。連れて歩けるのは1人が限度だったが、逃げている間、道端に捨てられた女の子の姿が頭から離れなかった。

樺太の看護師時代の千葉さん(前)

 冷夏の年。寒い夜を徹して歩き通し、日中は森の中に潜み、暗くなると列を組んで再び出発した。皆、疲労は極度に達していた。そうした逃避行も豊原市に到着する前に終わりを告げた。道の向こうにソ連兵が待ち伏せし、「これ以上、進むと全員殺す」と追い返されたからだ。

 塔路町に引き返していた時、置いてきぼりにされたあの女の子が死んだと知らされた。ソ連兵侵攻により、樺太各地の住民避難で同じような悲劇が起きていた。

 戻った塔路は既に、ソ連に占拠されていた。命が脅かされることはなかったが、兵士に大事な腕時計や着物を奪われるなど屈辱を味わった。

 終戦から2年後、北海道に引き揚げた。夫は若いうちに病死。1965年、室蘭から苫小牧へ移り住み、2人の子を育てながら懸命に働いた。

 「逃げるために自分の子を捨てるなど、考えられないこと。でも、戦争は普通の人々の心も異常にさせてしまう、恐ろしさがあるのです」

 あれから64年。夏の日差しがカーテン越しに注ぐ自宅の居間で、幼いひ孫がおもちゃを手にはしゃいでいる。その光景に目を細め、「平和を守らなければいけませんね」と、つぶやくように話した。