企画・特集
君は玉音放送を聞いたか
(6)苫小牧市泉町 小笠原三之介さん(81)
(2009年 8/15)
「ふるさとに帰る」で頭がいっぱい
「語り継ぐことは大切」と話す小笠原さん |
苫小牧の高齢者施設への慰問などを続けているボランティア団体「友愛グループ絆(きずな)会」。代表を務める会の会報に昨年夏、戦争体験を初めて書いた。
ボランティア活動で知り合った若者と戦争について話し合った時、「戦争のこと書いたら」と言われたのがきっかけだった。書いても読まれないだろうと思いつつも、ペンを握り、戦時中にいた函館の船員養成所時代のことを振り返った。
しばらくして、読者の50代の女性から便りが届いた。「興味深く読ませてもらいました」「これからも生きてきた証しを、(戦時体験の)生の声を伝えてください」。そんな言葉が並んでいた。あの時代を語り継ぐ意を強くした。
終戦を迎えた時、船員養成所で教官助手をしていた。玉音放送は海軍の上官や、約150人の若い訓練生と聴いた。放送が終わった後、上官が短剣を抜き、「日本は負けた。切腹の仕方を教える」と涙を流して言った。黙って聞いていたが、「切腹なんて冗談じゃない」と思った。故郷の苫小牧にどうやって戻るか。これからのことで頭がいっぱいだった。
苫小牧で生まれ育ち、小学6年生の時に父が他界した。7人きょうだいの3番目。8歳離れた2番目の兄は出征し、パラオ諸島・ペリリュー島での日本軍玉砕で戦死した。一家を養う父や兄を失い、貧困生活は厳しさを増した。志願兵になったのは、家族を支える金が必要だったからだ。
函館では空襲にも遭った。焼夷(しょうい)弾が次々と落とされ、街は火の海にのみ込まれた。日常的に死があふれていた時代だった。
戦時中の体験を記した会報 |
終戦間近、日本海軍の輸送船で上海へ向かうよう命令が下された。死を覚悟し、遺品として髪やつめを切り、実家へ送った。だが、乗るはずだった輸送船が敵襲を受けて沈没した。函館で足止めされている時に日本が降伏し、命拾いした。「戦争があと1週間続いていたら、この世にいなかったでしょうね」
苫小牧に戻ってからは、がむしゃらに働いた。戦争体験を妻や子供たちにも口にすることなく、月日は流れていった。
しかし、戦争を語ることは大切と最近、強く思うようになった。「簡単に人が殺される事件が増えた気がする。日本は今、本当に平和なのか。命を尊ぶ機運が失われ、戦争時代がまた繰り返されてしまうのではないか」。そうした不安を覚え、「戦時の悲惨さを体験者が語り、命や平和の尊さを訴えなければ」との思いを募らせる。
しかし、戦禍の生の記憶は、社会から消えつつある。体験者が高齢化して次々に世を去り、国民総動員のあの暗い時代を語り合える友もいなくなってしまった。
「仲間が生きていたら、語り継げることはたくさんあるのですが」。闘病生活を送る病室で、そんなもどかしさも感じている。


