企画・特集

君は玉音放送を聞いたか

(2)苫小牧市大町、森政則さん(83)

(2009年 8/11)

教育が与える怖さ実感

軍国主義教育の恐ろしさを語る森さん

 「かすかに聴こえる声は、どこか悲しそうでした」。ラジオで敗戦を伝える天皇陛下の声を、そう記憶している。当時、樺太(現サハリン)の真岡の実家に住み、教師を目指して師範学校に通う19歳の青年だった。

 戦時中は学校といっても、学生はほとんどいない。同級生らが次々に出兵していったからだ。「徴兵はたまたま後になったけれど、覚悟はしていました」。死ぬのが当たり前の時代だった。

 玉音放送の前日、内容は明かされなかったが、天皇陛下の大事な放送があることを聞かされた。そして当日の昼。森さんはわずかに残っていた学生と配属将校、教員ら約30人と一緒にラジオの前で直立不動になり、その時を待った。

 雑音がひどかったけれど、日本が負けたことは分かった。「やはり負けたことが悔しかった。周りの人たちも泣いていたのを覚えています」

 終戦から1カ月後、学校を卒業。その年秋から小学校の教壇に立った。教室でまず児童に指示したのは、教科書への墨入れ。軍国主義を教える教科書の文字に墨で塗りつぶすところから、戦後の教育は始まった。

 「突然、民主主義や自由を教えなさいと言われ、自分が学んできたことを否定しなければならない。何を教えるか悩み、しばらく図書館の本を読み聞かせたり、歌を歌ったり」

 樺太で2年ほど教師を務めた後、親せきのつてを頼り北海道へ。苫小牧東小や開成中、苫小牧中央高などで教えた。戸惑いの中で始まった教師人生はあっという間に過ぎていった。

 玉音放送が流れた後も、樺太で起きた悲しい出来事は今も忘れられない。1945年8月20日、ソ連軍の侵攻で、真岡郵便電信局の電話交換手の女性9人が自ら命を絶った。映画やドラマにもなったこの悲劇の舞台は、森さんが住んでいたまちだった。

 戦時中は軍国主義教育によって、敵の捕虜になるより、死を選ぶことが美徳とされていた。

 電話交換手だった親友の姉も、悲劇の当事者だった。「なぜ死ななければならなかったのか」。姉の死を話してくれた親友を思い出すと、今も言葉にできない悲しみが胸を締め付け、涙が出そうになる。

 「あの時代は、平和を尊ぶことが吹き飛んでしまっていた。教育が、人に与える怖さを思い知らされました」

 教師を辞めた今も、教育への思いが尽きないでいる。