企画・特集
君は玉音放送を聞いたか
(1)苫小牧市のぞみ町、久野剛さん(81)
(2009年 8/10)
原爆の悲劇を語り伝える
「あの夏は忘れられない」と語る久野さん |
「熱線に焼かれ、男女の区別が付かない遺体。むごい光景でした」
長崎原爆の日の9日、苫小牧市内で開かれた原爆詩朗読劇。主催の市民団体に招かれ、被爆体験を語った。年前の惨劇。記憶をたどる話に、会場の子供たちもじっと耳を傾けた。
1945年8月15日正午、天皇陛下の玉音(ぎょくおん)放送がラジオに流れ、暗黒期に終止符を打った日本。その後の平和な歩みの中でも、「あの日を風化させてはならない」と、原爆の語り部を続けている。それが被爆者の自分の役目と思っている。
暑い日だった。青い空に閃光(せんこう)が走り、猛烈な熱風が体に巻き付いた。どのくらい倒れていたのか。やっと意識を取り戻した時、街は阿鼻(あび)叫喚の惨状と化していた。
終戦6日前の9日午前11時2分、爆心地から数キロ離れた長崎駅で被爆した。長崎県沖合の香焼島の造船所で、軍用造船に携わる17歳の若者だった。
造船所でつらい仕事が続く中、休日に島から船で長崎市に出掛け、都会の空気に触れるのは一番の息抜き。特に長崎駅によく足を運んだ。線路の向こうにある郷里・熊本県。プラットホームから走りだす汽車を眺めていると、遠く古里と心がつながる気がした。
あの日もそうだった。寮の友人と駅でぼんやりと過ごした後、尿意を覚え、駅舎近くの小路に駆け込んだ。これが幸いし、建物の陰になり爆風の直撃を免れた。だが、友人の姿は消えていた。
何が起きたのか、どこをどう歩いたのか分からない。もうろうとしながら、島に戻るため港へ向かった。そこにも地獄絵図が待っていた。目に映るのは、全身が焼けただれ、ぼろぼろになった人々ばかり。気付けば、自分も真っ赤な血に染まっていた。
被爆地の写真を示し、惨状を語る=9日、苫小牧市・シーフェアラーズセンターで |
爆風は核兵器によるものだったことは、負傷した体の治療で入院した島の病院で聞かされた。長崎上空でさく裂したプルトニウム爆弾により、一瞬に奪われた約7万4000人の命。島の造船所で働く者は連日、黒こげになった遺体の処理のため、放射能に汚染された悪夢の地へ、無防備のまま足を踏み込んだ。
広島に続く長崎への原爆投下、そして降伏。玉音放送は、入院先の病院にも流れた。
郷里の同級生たちがいた長崎市内の兵器製作所も吹き飛び、壊滅した。雑音が入り交じる天皇陛下の放送を耳にしながら、戦争の終結にどっと気が抜ける思いをした。
戦後、苫小牧で市営バスの運転手を長く務めたが、被爆の影響で体調不良になり、今も薬を離せない。
たった一発の爆弾が未曽有の惨禍を招き、生き残っても原爆症で命を落としたり、いまだ苦しみ続ける人は多い。「何十年たっても消えぬ悲しみ。原爆の恐ろしさを語り継がなければ」
小学校に依頼され、被爆体験を語ることもある。「子供たちのためにも核兵器を世界から無くさなければいけない」。命ある限り、そう訴え続けるつもりだ。
戦時中、何を体験し、敗戦を告げた玉音放送をどんな思いで聴いたのか。記憶を探した。


